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2019年10月11日

自由権委員会1998審査と名古屋刑務所事件から監獄法改正まで

                        CPRニュース100号記念

自由権委員会1998審査と名古屋刑務所事件から監獄法改正まで

 

                       監獄人権センター代表 海渡雄一

(本稿は201910月に発行された監獄人権センターニュース100号に、掲載したものです。監獄人権センターのHPは 
http://www.cpr.jca.apc.org/ 
です。小さな団体ですが、約25年にわたり、刑事拘禁制度の改革のために努力を続けてきました。皆様のご支援をお願いします。)

 

センター設立の前史

早いもので、1995年に監獄人権センターを設立し、夢中で活動をつづけ、いつのまにかニュースは100号を数えた。約25年の歳月が流れた。私は初代の事務局長、二代目が田鎖麻衣子弁護士、そしてこのたび大野鉄平弁護士が新たに事務局長に就任した。過去の経緯を知らないスタッフも増えた。

 まず簡単に歴史を振り返ると、私は1981年に弁護士登録し、1982年2月から始まった日弁連の拘禁二法案に対する反対運動に最初から加わった。政府との法案をめぐる対立の中で、弁護士会の意見を作るために監獄法について勉強し、その対案の策定の活動に参加した。1984年に第二東京弁護士会のヨーロッパ監獄調査に参加し、ヨーロッパと日本の刑務所の違いに大きなカルチャーショックを受け、人を人間的に処遇すると言うことの意味を開眼させられた。

 在監者と子供との面会を禁止していた監獄法施行規則の有効性を争った裁判で1991年に最高裁で施行規則の無効という実質勝訴判決をかちとった。私は1989年に「行刑過程の民主的コントロール」(日本評論社「監獄の現在」所収)という論文の中で、行刑の改革のためには第三者機関と弁護士会の活動だけでなく市民的な人権保障のための団体が必要であると書いた。しかし、このような団体を自分から言い出して作ると大変な仕事になるだろうという思いで、踏み切れないでいた。

 1992年に日弁連宛にイギリスに事務局を置くピナル・リフォーム・インターナショナルの事務局長をされていたビビアン・スターンさんからお便りをいただいた。「日弁連の出版した日本の刑事施設の実状を紹介したパンフレットを見た、人権保障のためにがんばって下さい。いつかお会いしましょう。」という励ましの便りであった。

 1993年秋に日弁連の刑事弁護センターによるイギリスの当番弁護士制度の調査に行った際に、ロンドンの郊外にあるピナル・リフォーム・インターナショナルの事務所を訪ね、ビビアンさんに会った。そのとき、市民による刑務所改善のためのNGOを作るように強く勧められた。帰国してから監獄人権センターの設立の準備を始めた。

 

監獄人権センターの設立と1998自由権規約委員会審査


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 1995年3月11日監獄人権センターは結成された。来春には25周年を迎える。総会には、日本の刑務所の人権状況の調査レポートを起草したヒューマンライツウォッチのジョアンナ・ウェシュラーさんをゲストに招いた。監獄人権センターの設立は、①拘禁施設における人権状況を国際水準に従って改善する。/② 刑罰における不公平差別をなくす。/③ また、刑事被拘禁者の拘禁自体を減らし、その社会復帰に役立つよう拘禁刑の内容を改善する。/④ 死刑を廃止するなどと決めた。

  センターの日常活動は獄中からの手紙に返事を書く作業である。また、数多くの訴訟を提起して闘ってきた。私たちは、CPR結成の直前の1990年代のはじめころから革手錠の施用に関する国家賠償事件を、数多く担当した。革手錠の使用は、非常に残酷なもので、これを厳しく緊縛することによる傷害事件はかなり以前から継続して発生していた。1996年の総会にはブリティッシュ・カウンシルの援助を受け、ビビアンさんとコイルさんのご夫妻を日本に招いた。

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 1998年11月の規約人権委員会の日本政府報告書審査は、最初の大きな節目であった。1995年にはヒューマンライツウォッチの日本の監獄に関するレポートが、1997-98年にはアムネスティ・インターナショナルの日本の監獄などに関する二つのレポートが公表された。そして、1998年の自由権規約委員会の審査は、監獄人権センターにとって、決定的に重要なものであった。われわれは、カウンターレポートを作成し、代表団を送った。この審査を通じて、監獄人権センターは、刑務所における人権問題について、ささいな規則の適用、革手錠の使用、長期の独居拘禁、死刑確定者の面会通信の厳しい制限などに深刻な懸念を表明し、国内人権機関の設立と刑務所について信頼できる不服審査システムの導入、法執行官や裁判官を対象とする人権教育の実施などを勧告する歴史的な最終見解を手にすることができた。

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名古屋事件の発生と死亡帳の開示へ

 この最終見解に対する法務省の対応をどのように評価するかは困難な問題である。法務省はこの勧告を無視したわけではない。当時我々が特に問題としていた革手錠の使用についてはこれを厳格に限定する通達を発し人権侵害を防止しようとした。しかし、このような対応は全く不十分なものであり、名古屋事件の発生を未然に防ぐことができなかった。

名古屋刑務所事件は、一言でいえば、刑務所の規律秩序に従わない受刑者に対して、革手錠などを用いて保護房に拘禁し、密室の中で拷問というべき処遇を繰り返し、複数の死者と負傷者を生み出した事件であった。

名古屋刑務所では監獄人権センターへの手紙の発信も妨害されていたし、そもそも不服申立そのものが厳しく敵視されていた。ここから、施設の開放化・透明化を進めることがこのような悲劇的事件の再発防止につながるという教訓が導き出されたのである。

 2001年10月の名古屋刑務所事件の発覚から、死亡帳の開示、行刑改革会議の設立、そしてその審議を経て行刑改革会議の提言へと至った時期は、我々にとって疾風怒濤の時期であった。名古屋刑務所事件という、一つの刑務所で発生した人権侵害事件が、全体的な刑務所制度の改革につながったのは、死亡帳の開示と多数の疑わしい死亡例が明るみに出されたことが大きく影響している。

保坂展人衆院議員は、過去10年間の被拘禁者の死亡事例について、死因を明らかにするよう法務省に質問した。当時の矯正局長は、そのような調査は不可能であると述べた。しかし、各刑務所には「死亡帳」という簿冊があり、これをコピーして提出すれば簡単に調査できた。この「虚偽答弁」によって、法務委員会は与野党一致して、この死亡帳の公開を求めた。矯正局長は更迭され、刑事施設内で死亡した被拘禁者に関する1600名余の死亡帳が開示された。

この死亡帳が、驚くべきものであった。多くの被拘禁者の死因が、「急性心不全」とだけ書かれていた。「急性心不全」とは急に心臓が止まったというにすぎず、原因不明の死が多数発生していたのである。この死亡帳の中から、我々は、243件のケースを選び出し、さらに詳細な資料の提出を求めた。参議院の法務委員会の努力により、243件のケースについて、視察表とカルテなど死亡の経緯がわかる書類が公表された。段ボール10個分にもなる資料を相手に幾晩も徹夜に近い作業が必要だった。私たちは格闘した。これらの中には、革手錠を施用直後に死亡しているケース、統合失調症や拘禁反応の受刑者を拘禁性の強い保護房に収容したため、急性心不全を起こした例や、アルコール依存症の後遺症や夏期の高熱のために保護房で脱水死した例、脳腫瘍で病院で治療予定のものを保護房収容直後に死亡させたケース、暴れたために鎮静用の筋肉注射を打ち、直後に死亡させた例など筆舌に尽くしがたい虐待の数々が明らかになった。保護房拘禁に近接した時期に死亡した事例が29件に上り、死因が全く不明、ひどい医療過誤事案も70件以上におよぶことがわかった。5月21日にこの記録を検討し、衆議院法務委員会で証言した一般病院の医師は200件以上が医療過誤として訴訟になっておかしくないケースだと証言した。このような状況の下で、2003年3月には行刑改革会議が森山真弓法務大臣によって設立され、審議が開始されていったのである。

 

行刑改革会議の提言から監獄法改正へ

行刑改革会議は、きわめてスピードの速い、出口の時期の決まっている会議体であった。対策も電光石火の対応が必要となった。われわれは、副代表の菊田幸一明治大学教授を行刑改革会議の委員として送ることができた。センターは日弁連の活動ともリンクして、できうる限りのロビー活動を行刑改革会議の委員・事務局に対して展開した。

  監獄人権センターは、受刑者に対するアンケートの実施と海外調査の実施を強く主張し、これを実現させることができた。今回の行刑改革が一本骨の通った哲学を持つことができたのは、少なくない委員が実際に海外の刑務所を視察し、ヨーロッパにおける人間性を尊重した処遇の実態に直にふれたことが大きな根拠となっているように思われる。

2003年12月にまとめられた行刑改革会議の提言は次のように述べている。

「かつて他人の人間性を踏みにじった受刑者の人権を尊重する必要などあるのかという声も国民の中にあるかもしれない。また,受刑者のために一層のコストをかけることに対して抵抗感を抱く国民もいるかもしれない。しかし,我々は,受刑者の人権を尊重し,改善更生や社会復帰を図るために施す処遇を充実させることに要するコストを無駄なものとは考えない。むしろ,今,必要不可欠なものである。なぜなら,この改革において実現される処遇により,受刑者が,真の意味での改善更生を遂げ,再び社会の担い手となるべく,人間としての自信と誇りをもって社会に復帰することが,最終的には国民全体の利益となるものと考えるからである。」

「受刑者が、単に刑務所に戻りたくないという思いから罪を犯すことを思いとどまるのではなく、人間としての誇りや自信を取り戻し、自発的、自律的に改善更生及び社会復帰の意欲を持つことが大切であ」(10頁)るとしている。

 行刑改革会議の提言と被収容者保護法の改正によって監獄人権センターが求めてきた改革案がいくつも実現した。外部交通こそが社会復帰の前提であり、友人との面会を認め、電話の設置の可能性を開くなど外部交通の拡大を行った。市民で構成される刑事施設視察委員会が各刑務所ごとに設置されることとなった。これまで秘密とされてきた通達が公開された。なにより、力と規律による行刑ではなく、信頼と対話に基づく行刑の基本を強く打ち出した。独居拘禁の弊害が共通認識とされ、これを短期にし、極力減少させていくこと、その手続に医師が関与することとされた。刑務所医療が不十分な実態にあることは共通認識となったが、日弁連や監獄人権センターが強く求めた厚生労働省への移管、健康保険の適用は将来の課題として見送られた。

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日常的な蓄積があってこそ、チャンスを成果に結びつけられる

 監獄法改正からまもなく15年が経過する。視察委員会によって、施設の風通しは少しは良くなり、拷問的な処遇が繰り返されるようなことはなくなってきたといえるだろう。名古屋刑務所事件と大量の刑務所内不審死亡事件の発覚という悲しい出来事をきっかけとしてではあったが、一定程度改善が進んだ。その後も、視察委員会の活動によって、各地で少しずつ処遇が改善されたところもある。島根朝日社会復帰支援センターなどを先頭に、進んだ社会復帰プログラムを取り入れる施設もでてきた。刑務官が受刑者の再犯防止が自分たちの仕事であると考えるようになった。

しかし、いったんは広がった外部交通が再び狭められ、軍隊式行進や全裸検診なども根絶されていない。この15年間はむしろ停滞と揺り戻しの時期であったといわざるをえない。

 大きな制度の改革は、なんらかのチャンスをとらえて大きな政治の流れを作ることでしか進められない。そのようなチャンスはいつ、どのような形でもたらされるか、事前にはわからない。だからこそ、私たちは、アンテナを高くして、施設の中の異変をキャッチし、それを確実に制度の改革につなげられるよう日々準備を怠らないことが必要だろう。
 監獄法の改正はエポックではあったが、多くの問題が未解決のまま残された。未決被拘禁者については、代用監獄の廃止も法的地位についての無罪推定の原則も明記できなかった。外部交通も法改正後に改善が進んだが、現在はむしろ後退していると言わざるを得ない。

 次のステップの大きな課題は、日本の刑罰制度の最大の問題点といえる死刑の廃止が実現していないことである。また、所内医療が刑務所の保安体制に従属し、適切かつ迅速な治療が提供されず、受刑者の命に関わる事態が多発していることである。熱中症の対策も弥縫策ではなく、抜本的対策が求められている。視察委員会の活動の経過の中でも健康問題の深刻さはいっそう明らかになってきている。

長期に及ぶ独居拘禁は監獄法施行時に比べかなり減少したが、依然として少なくないこと、無期懲役受刑者の仮釈放が著しく困難になり実質終身刑化しつつあること、刑務所労働の対価として支払われる作業報奨金が依然として月3000円程度の水準で改善されていないこと、受刑者が失業保険などの社会保険制度から排除されていることなども深刻な課題であり、改善を求めていく必要がある。

最後に、視察委員会制度は、刑事、留置施設だけでなく、入管、少年刑事施設にまで、拡大した。人を拘禁する施設で視察委員会がないのは、児童相談所と精神病院である。拷問等禁止条約の選択議定書に定められた国内防止メカニズムとして、国内人権機関を核として、各施設委員会と連携したメカニズムを構想する必要がある。





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