万葉集

2021年01月10日

万葉集に遺された流罪受刑者とその妻との悲しくも激しい歌

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万葉集に遺された、罪に問われて流罪となった受刑者とその妻との歌のやり取りをご紹介します。

 私は受刑者の人権の問題をずっと考えてきましたので、古来、罪に問われた人がどのような扱いを受けてきたかについては、とりわけ興味深く古今東西の例を調べてきました。
 奈良時代における受刑者とその妻との外部交通について理解できる資料が万葉集に遺されています。
 「令和」の考案者である中西進先生の講談社文庫「万葉集」の第三巻と、講談社学術文庫の「続日本紀」などを参考にします。
 万葉集に罪に問われて流罪となった受刑者とその妻との悲しい歌のやり取りが遺されています。それは、中臣朝臣宅守と狹野茅上娘子の二人の歌です。
 この歌が収録されている万葉集の第十五巻は、天平八年に新羅に遣わされた使人が出発時と途上に家族との別れを惜しんで詠んだ歌など、別れの悲しみを詠った和歌が多数収められていますが、第十五巻の最後の六十三首は罪によって越前に流された中臣宅守と、奈良の都に残されたその妻・狹野茅上娘子との間に交わされた歌で占められています。
 これは、私が、万葉集の中で最も心惹かれる章です。

このような歌がどのようにして詠まれたのか

 この巻の目録には、この歌群の説明として、次のように述べられています。
―中臣朝臣宅守の蔵部の女嬬狹野茅上娘子を娶(ま)きし時、勅して流罪に断じて、越前国に配(なが)しき。ここに夫婦別れ易く会ひ難きを相嘆き、各々慟(いた)む情(こころ)を陳べて、贈答せる歌六十三首
(中西先生の書き下しです。)
全部で六十三首もあります。狹野茅上娘子の歌は23首、中臣朝臣宅守の歌が40首です。
 詞書によれば、狹野茅上娘子は後宮または斎宮の蔵部に属していた女官であったようです。
 「娶きし時」をどのように理解するかが、研究者の間で意見が分かれているようです。「娶きし時」には「共寝して女性を抱く。」という意味と、「妻にめとる。」という意味の二つの意味があるからです。

宅守の流罪の原因は

 流罪の原因については、説が分かれています。
 二人の恋愛関係そのものが、女官(采女だけでなく蔵部の女嬬を含むかについて争いがあります)は潜在的には天皇の妻であり、姦通罪に問われたという説、結婚直後に宅守が何らかの罪に問われたとの説の二つの考え方があるのです。
 この詞書に、二人が「夫婦」とされていること、二人の関係が許されぬものであれば、「姦」の字が使われるはずで、また、狹野茅上娘子も罪に問われたはずであることから、結婚と同時期に何らかの別の罪に問われ、別れ別れになったとの説も有力です。

青鞜の女たちが絶賛した狹野茅上娘子の歌

 狹野茅上娘子の歌、とりわけ「君が行く道のながてを繰り畳ね焼き亡ぼさむ天の火もがも」の歌は、道が天の火で焼き滅ぼされるという情景描写は情熱的で独創的なものです。
 和泉式部や式子内親王にも匹敵する力強さを感じます。現代のフェミニズムにも通じていると思います。中臣朝臣宅守の歌も悪くありませんが、私が好きな彼女の歌と宅守の代表的な歌を紹介していきます。最初は流罪となり、越前に赴く宅守を送る狹野茅上娘子の歌です。
万葉集巻第十五巻 
三七二三 あしひきの山路越えむとする君を心に待ちて安けくもなし
三七二四 君が行く道のながてを繰り畳ね焼き亡ぼさむ天の火もがも
三七二五 わが背子しけだし罷らば白妙の袖を振らさね見つつ思はむ
三七二六 この頃は恋ひつつもあらむ玉くしげ明けてをちより術なかるべし
次の宅守の歌は配所についてから狹野茅上娘子に贈った歌ですが、痛切な響きがあり、なかなか良いです。
三七四〇 天地の神なきものにあらばこそ吾が思ふ妹に逢はず死にせめ
三七四一 命をし全(また)くしあらば珠衣(ありきぬ)のありて後にも逢はざらめやも
三七四二 逢はむ日をその日と知らず常闇にいづれの日まて吾恋ひ居らむ
これに答えて狹野茅上娘子が贈った歌の中で特に次の二つは優れていると思います。
三七四五 命あらば逢ふこともあらむ我がゆゑにはたな思ひそ命だに経ば
三七五〇 天地の極(そこひ)の裡(うら)に我(あ)がごとく君に恋ふらむ人はさねあらじ

想い人は帰った来たと思ったけれど

さらに、次の歌はあまりに悲しい歌です。
三七七二  帰りける人来れりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて
 この歌は解説が必要です。
 「続日本紀」によると、天平十二年(740年)に聖武天皇の病気快復祈願の勅命で、大赦が行われていますが、当時、流罪で越前に滞在中の宅守は、その大赦から外されているのです。
 大赦の令で奈良の都に返されると思い喜んだが、大赦から漏れて、ぬか喜びであったことを嘆いたということを詠っている歌です。本当に悲しい歌ですね。
 この時、大赦から除外される罪として、「業務上横領」「故意的殺人」「計画的殺人」「偽金造り」「強盗・窃盗」「姦通」の六つが挙げられています。宅守の罪はこの六の罪の中の一つということになります。

二人の共通の想い出を詠った歌

宅守の送った歌には二人の想い出に関すると推測される歌もあります。
三七七六 今日もかも都なりせば見まく欲り西の御厩の外に立てらまし
この歌は、二人が平城京で過ごした時代を回想して詠んだ歌なのでしょう。二人にとっての想い出の場所なのかもしれません。
遺されている狹野茅上娘子の歌は、この歌に答えた次の二通です。
三七七七 昨日けふ君に逢はずてするすべのたどきを知らに音のみしそ泣く
三七七八 白妙の吾が衣手を取り持ちて斎(いは)へ我が背子直に逢ふまてに
右の二首は、娘子が和贈(こた)ふる歌。

宅守は帰京を許されたが、二人が再会できたという記録はない

 宅守はかなりの高官であり、その後の動向を探ることができます。続日本紀には、その後の天平十三年(741年)九月、前年の恭仁京遷都に伴う大赦で流人は全て赦免され、この時に宅守も帰京を許されたとの見方もあります。
 また、天平宝字七年(763)正月、従六位上より従五位下に昇叙されています。当然そのころには帰京を許されていたと思われます。
 そして、「中臣氏系図」によれば、翌天平宝字八年、宅守は大伴家持も加わった恵美押勝の乱に連座し、除名されたとされています。そして、万葉集にも、続日本紀にも二人が再会できたという記録はありません。
ことばの強さ

 これらの歌のやり取りを見ていると、時の流れとともに、二人の心が少しずつ移り行くことがわかり、しかし、想いは続き、むしろ痛切さを増していることを確認することができます。万葉集には、権力者の歌も残されていますが、むしろ虐げられた者、社会の主流から外された者の想いを丹念に拾い集めているところに、何とも言えない魅力があります。
 「令和」のもととなった、大宰府の歌宴の主宰者である、大伴旅人もまた、非業の死を遂げた長屋王の盟友であり、左遷されていて友を救うことができなかったルサンチマンを酒に託した多くの秀歌を遺しています。
 今も、昔も、罪に問われ、自由を奪われた者と簡単に会うことができなくなった者とが遠く離れていても文通で心を通わせることの大切さを感じます。
添付は電子書籍万葉集解説サイトからの引用です。


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