金子文子

2019年10月11日

金子文子の獄中からの手紙を読む(その2)  検閲で差し止められた「不逞な夢の報告」

金子文子の獄中からの手紙を読む(その2)
 検閲で差し止められた「不逞な夢の報告」


はじめに

 金子文子シリーズを続けます。実は次は朴と文子に対する死刑から無期への恩赦のこと、その次は文子の死の理由についての遺された謎のことを書こうと準備しているのですが、わからないことも多く、調べたいことが次々にでてきて、完成までには、まだまだ時間がかかりそうです。
 今回は金子文子の獄中からの手紙の中から、さらに一通を紹介したいと思います。これは大正時代の刑務所処遇とりわけ厳しい検閲にふれた手紙です。

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 文子の多くの手紙を今読むことができることは、支援したひとびとの努力のたまものであり、奇跡ともいえます。そして、この手紙を読めば、出すことのできなかった手紙も数多く存在したことがわかります。

検閲で差し止められた「不逞な夢の報告」

 この手紙は、社会の中で起きている悲惨な状況もきちんと教えてほしいということが主眼ですが、よく読んでいただくと、「数日前貴方に宛てた手紙──「不逞な夢の報告」が怪しからんと云って、不許になって舞い戻って来た。」とあります。さらりと書かれていますが、刑務所当局の検閲によって手紙が発信できなかったということです。文子が獄中で見た夢の手紙が残っていたら、どれほどか、興味深いものだったでしょう。
 文子は、「夢にまで不逞な真似を演ずるのは怪しからんと斯う云う訳さ、誰かゞ妾の言葉が強烈すぎると云った。妾には判らない、生活を奪われている者にとっては、そして殊にP(朴のこと)のようにニヒリズムに徹底していない妾にとっては……」と述べています。遺された手紙が、厳しい検閲を通過したものだけであることがわかります。
 そして、一体何通の手紙がこのようにして発信不許可となって闇に埋もれてしまったのだろうかと考えます。
 実は、文子の判決が言い渡されたのが26年3月25日ですが、31日に布施辰治弁護士に対して書かれた手紙(これについてはのちに触れる予定です。)が最後で、その後には、家族にあてた手紙もなく、たったの一通の手紙も残されていません。

アカ落ち

 1908年に制定され、2005年に改正された監獄法の下では、家族と弁護士以外の通信と面会は原則として認められませんでした。
 「監獄用語」に「アカ落ち」という言葉があります。未決囚が確定して、受刑者の身分となり、赤い囚人服を着るようになるという意味ですが、友人たちとの手紙での連絡もできなくなり、社会の外に落ちていくような語感があります。

面会と通信の自由を奪われた文子

 確定後の文子は、母と市谷からいったん移送された八王子の刑務所で面会できたようですが、強く面会を求めた布施辰治も面会を認められませんでした。そして、その後に栃木に移監されたことも、母には通知されていなかったようです(「余白の春」)。
 7月31日の読売新聞によると「文子は収容の時900枚の原稿用紙、二本の万年筆、二個のインキ壺、75銭の切手を携えながら一回の文通も許されなかった。」といいます。同日の東京朝日新聞によれば、朴は夫であり、家族であるにもかかわらず、文通は止められていたと報じられています。
 遺品の中には、確定後に文子が書いた手紙もノートも原稿用紙、便せんも残されていません。下獄するときに、文子は確かに持ち込んだはずの原稿用紙は、白紙のものすら見つけられませんでした。
 文子の死については、朴烈に対する愛に殉じた覚悟の自殺(瀬戸内寂聴氏)、ニヒリズム思想と反天皇制思想の完結という見方(山崎朋子氏)と、無期懲役囚として生涯自由を奪われ、自らの思想を維持できなくなるかもしれない絶望が死を選ばせた(松本清張氏)などさまざまな見方があります。私は、山田昭次氏もその著書で指摘されているように、このような過酷な処遇、とりわけ自らを表現し、他者と交流する自由を奪われたことが、文子の死には重大な関連があるように感じられてなりません(「金子文子」243ぺーじ)。このことは、また日を改めて詳しく論じてみたいと思います。

監獄の規律偏重主義は克服されたか

 それにつけても、「夢」の話を書いただけの手紙が、なぜ監獄の規律秩序を侵害するでしょうか。まさに監獄とは、人の自由だけでなく、その精神の核となる内心の自由まで奪おうとする存在だったことがわかります。
 2005年の監獄法改正で、施設の規律は厳正ではなく、適正に維持されればよいことにはなったはずです。
刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律73条は
「1 刑事施設の規律及び秩序は、適正に維持されなければならない。
2 前項の目的を達成するため執る措置は、被収容者の収容を確保し、並びにその処遇のための適切な環境及びその安全かつ平穏な共同生活を維持するため必要な限度を超えてはならない。」と定めています。
 このような法律の下で、少しは刑務所の処遇は変わったといえるでしょうか。今も昔も変わらない、日本の刑務所の「規律過敏症」はどうしたら克服できるのでしょうか。

文子の短歌に残る大正の監獄

 文子の短歌の中には、刑務所の規律、あるいは手紙の検閲を呪ったものがいくつか遺されていますので紹介しておきます。
「皮手錠 はた暗室に 飯の虫 只の一つも 嘘は書かねど」
「在ることを 只在るがままに 書きぬるを グズグズぬかす 獄の役人」
「言はぬのが そんなにお気に召さぬなら なぜに事実を 消し去らざるや」
「狂人を 縄でからげて 病室に ぶち込むことを 保護と言ふなり」
 この手紙の中でも、二人の同志が獄死していること、そのことを文子には知らされていなかったことを知り、心の中で泣いています。
 ここで、文子が、「妾は決して意気地なく牢死等をしてはならない」と決意を述べていることも、文子のその後の死の動機を考えるうえで、示唆を与えるものといえるでしょう

革手錠は廃止されたけれど・・・

 ここに出てきた「皮手錠=革手錠」とは、名古屋刑務所事件で拷問の道具として使われ、獄中者の命を奪った拘束具です。私たちは、1995年に刑務所内の人権状況を改善するために、監獄人権センターを創りましたが、最初からその活動目標に革手錠の廃止を掲げました。

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(裁判所の検証調書をもとに監獄人権センターが作成した革手錠のレプリカ)

監獄人権センター
http://www.cpr.jca.apc.org/

 その数年ほど前から、私は革手錠によって拷問的な扱いを受けたという被拘禁者の国家賠償訴訟を次々に担当しました。1998年の自由権規約の日本政府に対する審査では、委員会は、革手錠が人権侵害への不服を主張する被拘禁者に対する報復として拷問的に使用されていることを認定し、その改善を勧告しました。その後、名古屋刑務所で、革手錠の使用によって受刑者が死亡・負傷したケースを含む、複数の人権侵害が発覚しました。森山真弓法務大臣によって、行刑改革会議が設立され、日弁連の元会長(久保井一匡氏)や監獄人権センターの副代表(菊田幸一氏)も参加が認められました。その答申に基づいて2005年に監獄法の改正によって革手錠はようやく廃止されたのです。 
 「暗室」とは重屏禁罰が課せられる「闇室」とも呼ばれた房で、この中には日も差さず、布団も与えられませんでした。最長七日ですが、酷寒の網走では、幾人の受刑者がこの房の中で人知れず息絶えていったでしょうか。この房は、戦後に監獄制度が一部改革されるときまで使用されていました。これは網走監獄博物館に残されているものです。
 「保護」「病室」とは、「縄でからげて」とありますから、保護房のことを指しているのでしょう。名古屋刑務所事件で革手錠による拷問死が発生したのも保護房(保護室)でした。2005年の監獄法の改正によって、使用が厳しく制限され、テレビカメラで処遇を録画保存することになりました。

今も命の危険がある刑事施設

 最近も、刑務所で熱中症死や凍死が報告されています。2018年7月24日には名古屋刑務所内で40代の男性受刑者が熱中症で死亡しています。
 刑事収容施設の職員が、収容者の生命及び健康の保持に努める注意義務に違反したとして、未決勾留中の被告人が拘置所の独房内で凍死した事故につき、拘置所職員に過失があるとされて、国家賠償が認容された判例(神戸地裁2011年9月8日)があります。
 現代日本の公的施設で、被拘禁者が凍死するようなことがあってよいでしょうか。この事件は神戸の松本隆行弁護士たちが中心となって担当した事件ですが、私も共同代理人を務めました。
 十分な医療が提供されずに命を落とす例も後を絶ちません。しかし、名古屋刑務所事件のような組織的で深刻な拷問死事件は、医師による患者に対する医療の名を借りた拷問的な迫害事件である徳島刑務所事件(2007)の後は、個別の刑務官による暴行事件などは続いていますが、報告されていません。

警察留置施設での拘束具の使用に起因した不審な突然死
 他方で警察の留置施設では、いまも拷問にも匹敵する、ひどい拘束具の使用によって、被拘禁者の死亡例が最近も報告されています。2017年3月14日に占有離脱物横領(クレジットカードを拾ったものを所持していた)の容疑で逮捕されたネパール人アルジュンさんは、15日朝、反抗的な態度をとったとして、警察留置場の保護室に収容され、ナイロン製のベルト、両足首を止める捕縄、膝を固定するロープという三つの戒具で拘束されました。残されている映像(添付しました)を見ると、厳しく締め上げられて、もがき苦しんでいる状況が残されています。アルジュンさんは、施用後、一度もナイロン手錠を外されないで検察庁に押送され、検察官の取調室でこの戒具を外された15分後に、筋肉壊死で生じたカリウムが「筋挫滅性症候群」を起こして死亡したとされます。
 この事件で、アルジュンさんの遺族は、2018年7月27日に国家賠償訴訟を提起しています。原告代理人は同僚の小川隆太郎、川上資人弁護士らが務めています。このナイロン製ベルトと同様の手錠は、刑事施設でも使用されており、このような危険性があります。その使用方法、使用可能時間などについて厳格なルールを定める必要があります。

ネパール2
(監視カメラに残された保護室内でのアルジュンさんの映像)

 ぜひ、みなさんに刑務所の中の人権状況について知っていただきたく、思わず、長い前置きになりましたが、獄中での文子の不自由な生活に思いをはせながら、お読みください

「<四月の或る日に──>
「達者でいてくれ、同志はみんな達者だ!」とばかり云わないで、凶いこともたまには知らしておくれ!
差入れまでしてくれた、そして堅実な有望な同志、生粋な妾達の仲間が、二人まで獄死しているぢゃないの?「達者でいてくれ」、有りふれた古い言葉にも新しい心根が植付けられているとは云え、そうした言葉をきくよりも、こうした事実を知らされた方が、心が引きしまる──「××の圧制に勇敢にも戦った同志は、斯うして獄に斃れて行く、……だが妾は? 妾は決して意気地なく牢死等をしてはならない」斯う思ってね、だらけた心根も引きしまる。  

生前に会った同志G兄のガッチリした態度や、顔立ちや、××××に載っていた詩などを思い合わせては、何とも言われぬ悲痛な気がする。惜しかった、本当に惜しかった、その辺の所謂気取り屋さんとは違って、あの人は不遜ビラ位で、命を落とす人でなかった。そう思うと、妾は今、心の中で泣いている胸が一杯になって来て──こうした時に、心から同じ道を歩む者としての、堅い堅い結束の程が望ましい。売名屋さんや、妥協主義者や、日和見主義の、そうしたなまくら者の一切を超越して××への復讐を、実感を以って叫んで見たい。その行動を生活したい──と、貴方がたは、ぐるになって、妾の耳に、娑婆の生々しい血のしたゝっているニュースは入れないように工夫しているのだね──
よろしい、覚えておいで、妾があの世で先廻りをしているから、その時にはきっと、ひどい目に遭わしてやるから……  
ここまで書いていると、数日前貴方に宛てた手紙──「不逞な夢の報告」が怪しからんと云って、不許になって舞い戻って来た。いや、夢にまで不逞な真似を演ずるのは怪しからんと斯う云う訳さ、誰かゞ妾の言葉が強烈すぎると云った。妾には判らない、生活を奪われている者にとっては、そして殊にP(朴のこと)のようにニヒリズムに徹底していない妾にとっては……
また改めて書くことにしましょう。
帯、あんまりボロボロになって捨てて了ったので、贅沢な言草だが、一筋きりしめ代えがないから、妾の荷物の中──鼠の復讐から無難だったら、帯、縮緬帯揚げ、モスリン下帯、黒い解かし櫛、以上の品々を差入れていただきたい、ではお願いまで。」


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2019年10月10日

金子文子の生涯とその思想・感性

いま、金子文子と朴烈について論ずることにどのような意味があるか その1

金子文子の生涯とその思想・感性
                              海渡 雄一

 

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(
映画「金子文子と朴烈」より 二人の出会いのシーン)

 

文子が遺したもの

私は、韓国映画「金子文子と朴烈」を見るまで、「大逆事件で死刑の判決を受けた被告人」であること以外、二人のことをほとんど知らなかった。映画に描かれた若い二人のエネルギーに圧倒され、映画館で金子文子の「獄中手記 何が私をこうさせたか」と瀬戸内寂聴氏の「余白の春」を買って読んだ。ますます金子文子の人生と彼らの起こしたとされる事件に興味を抱いた。文子は、この獄中手記以外に、膨大な予審調書、予審判事に宛てた手紙、大審院法廷で読み上げられた「二十六日夜半」などの手記など訴訟関係記録などを読み進めた。友人に映画の感想とともに、文子のことを話していたら、朴と文子の大逆事件を共謀罪と関連して論じてほしいという依頼が「週刊金曜日」からあり、8月2日号に、「金子文子と朴烈の行動は大逆予備罪に当たるか 反逆思想を遺した『死の勝利』」というタイトルで短文を掲載してもらった。
文子の半生は自伝に、その思想は公判資料として遺された。この予審調書などは長く非公開であったが、一部は布施辰治が戦争直後に書いた「運命の勝利者 朴烈」の中で公表された。関係者の調書の全貌があきらかにされたのは、黒色戦線社の「朴烈・金子文子裁判記録」(1977)とみすず書房の「続・現代史資料3 アナーキズム」(1988年)によってであった。そこに示された、ニヒリズム思想は、息を飲むほどに絶望的なものである。
そして、獄中から獄外の同志であった栗原一男氏や弁護人らに宛てた手紙、さらに手紙の中に書き込まれた、200余りの短歌などの中にその繊細でユーモラスな感性の輝きを遺した。
これらの文子の遺した文章や歌を読み進めるとき、文子の飾らない、清涼な人格に深く惹かれるものがある。「金曜日」の紙面では語りつくせなかった、文子のことについて、まとめてみたい。

読書案内

最初に私が読んだ読書案内からである。鈴木裕子氏の「金子文子 わたしは私自身を生きる」(2013年)には、手記と裁判記録中の金子文子の調書と短歌までが収められ、金子文子について知るために最適な入門書となっている。手紙の多くは山田昭次氏の「金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人」の巻末にまとめられている。
二人の事件を刑事事件として分析し、評論した著作としては、山田昭次「金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人」(影書房)、松本清張「昭和史発掘 第一巻」(文藝春秋)、森長英三郎「朴烈・金子文子事件」(法律時報35巻3・4号)、許世皆「朴烈事件 虐げられたものの反逆」(『日本政治裁判史録 大正』第一法規)などがある。

大逆死刑判決

まず、二人の受けた判決を見てみたい。
金子文子と朴烈は、1926年3月25日に、死刑判決を受けた。判決では二人は、虚無主義の思想を抱き、意気投合し、1923年秋に予定されていた皇太子の婚儀の際に、その行列に爆弾を投げることを企図し、1922年11月に義烈団と気脈を通じて爆弾を入手しようとして、朴が金子文子と共謀して、金翰に爆弾の分与を申し込み、その承諾を得、1923年5月無政府主義者金重漢と会合し、義烈団と連絡して上海から爆弾を輸入することを依頼し、約諾を得たとされた。これらが刑法73条の大逆予備罪、爆発物取締罰則3条の「爆発物の注文」に当たるとされたのである。
ここで論じたいことは、第一に、この判決に法的な根拠、十分な証拠が認められるかどうかについてである。
もう一つの目的は金子文子の遺したアナーキズスム、ニヒリズムあるいは絶対自由主義の思想が、深まる監視社会の中で、人の行動だけでなく思索の自由すらが侵害されようとしている現代において、どのような意味を持つのかを考察することである。

文子の苦難の半生

金子文子を語るときに忘れてはならないことは、彼女が無籍者として出生したことである。父佐伯文一は、母金子きくのを入籍せぬまま、1903年1月25日に文子は生まれたのである。戸籍は日本国籍と分かちがたく結びついていた。そして、父の不貞、妻(文子の母)への暴力、父の母の妹との駆け落ち、母と娘二人の貧乏生活、この時期に文子は人身売買の犠牲となる寸前まで追い詰められている。無籍を理由に学校に通えない、母が頼み込んでようやく学校に通っても、まともな免状すらもらえない。このような辛い被差別経験は、文子の人生に大きな刻印を遺している。
まもなく母の実家に身を寄せるが、母は文子を遺して別の家に嫁ぎ、文子は親戚の家を転々とする。1912年ころ、朝鮮の植民者として渡航していた父方の祖母佐伯ムツの娘夫婦の養子となり、朝鮮に渡る。しばらくして、文子は佐伯家の後継ぎにふさわしくないとみなされて、奴隷同然の酷使を受け、1917年には自殺を図っている。
文子の手記の前半は、父、母と祖母に対する呪詛に満ちている。1919年、16歳で文子は朝鮮から帰国する。帰国直前に文子は、「三一独立運動」に朝鮮の民衆が立ち上がるのを目撃する。文子は「私すら権力への反逆気分が起こり、朝鮮の方のなさる独立運動を思う時、他人のこととは思い得ぬほどの感激が胸に湧きます」と後に予審調書の中で述べている。このような感情の背後には、朝鮮に植民者として入植し、民衆から収奪を繰り返していた祖母一家からの仕打ちに対する憎しみ、他方で、文子に優しく接してくれた朝鮮の貧しい民衆への共感があった。
母の実家に戻った文子は、父とも衝突し、17歳で医師になろう、女子医専に入学しようと志して上京する。そして、新聞の夕刊売り、粉石けんの夜店、砂糖屋の女中、社会主義者の印刷屋の植字工などで生計を立てながら、正則英語学校や研数学館に通い、苦学した。
当時の勤め先での評判は悪くない。「極くさっぱりした若い者には珍しく宜く働く女でありました。」(相川新作 間貸し人)、「実に真面目でまめまめしく働き、夜は正則英語学校に通って相当の成績を挙げており、一点非難する余地のない立派な女でありました」(岩崎善右衛門 おでん屋店主)などの証言が残されている。夕刊売り時代を詠んだ短歌がいくつか遺されている。
「上野山さんまへ橋に凭り縋り(よりかかり)夕刊売りしときもありしが」
「居睡りつ居睡りつ尚鈴振りし五年(いつとせ)前の我が心かなし」

文子と朴烈の出会い・二人の闘い

文子は、キリスト教の救世軍や社会主義者らとも交わったが、いずれもその実態に幻滅し、アナーキズムのパンフレットを求めたことから虚無主義・ニヒリズムに惹かれていく。
「私は決して社会主義思想をそのまま受け納れる事が出来なかった。社会主義は虐げられたる民衆のために社会の変革を求めるというが、彼等のなすところは真に民衆の福祉となり得るか何うかということが疑問である。「民衆のために」と言って社会主義は動乱を起すであろう。民衆は自分達のために起ってくれた人々と共に起って生死を共にするだろう。そして社会に一つの変革が来(きた)ったとき、ああその時民衆は果たして何を得るであろうか。指導者は権力を握るであろう。その権力によって新しい世界の秩序を建てるであろう。そして民衆は再びその権力の奴隷とならなければならないのだ。然らば××〔革命〕とは何だ。それはただ一つの権力に代えるに他の権力を持ってする事にすぎないではないか。」
これは、まさに、当時のソビエトで起こりはじめていたことであり、しかし、多くの社会主義者には考え及ばぬところだった。
そして、社会主義者達が集う日比谷の「岩崎おでん屋」で働いていた文子は1922年2月に「朝鮮青年」に掲載されていた朴烈の「犬ころ」という詩に心を奪われる。そして、朴烈の友人に、自分を訪ねてほしいと伝言を依頼する。

文子はおでん屋に訪ねてきた朴烈に近づき、朴烈が民族主義者ではないということを確認して、5月には同志として同棲を始める。二人は「同志として同棲する。文子が女性であるという観念を取り除く。一方が思想的に堕落して権力者と手を結んだ場合には直ちに共同生活を解消する。」ことを約束し契約書のように拇印を押している。二人の関係が、今日のフェミニズムの観点からも興味深いのは、このように二人が完全に平等な関係性を目指し、これを具体的に実践しようとしていたからである。
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当時の二人の写真が主婦の友1926年3月号に掲載されている。朴烈のルパシカ姿が決まっている。文子が惚れた朴はこんな感じの若者だったのだ。文子もきりっとした目線で思い詰めた表情をしている。後述する怪写真よりこちらのツーショットの方がずっと良い。
1922年11月ころ、二人が所属していた黒濤会は、ボルシェビズム系とアナーキズム系に分裂し、黒友会、さらには1923年4月に不逞社を設立した。不逞社は二人の借家が事務所を兼ねていた。不逞社の例会は関東大震災までに4回開かれている。同人数は23人。そこで話し合われていたことは、友誼関係のある団体に電報を打つこと、アナーキストの画家望月桂、民衆芸術論者加藤一夫を招いて講演、投獄されていた中西伊之助の出獄歓迎会などが行われ、せいぜいが親日的な朝鮮の「東亜日報」の新聞記者に鉄拳制裁を加えるというような実力行動であり、これも大激論の末、やりたいものがやるという結論にしかならなかった。とても、天皇や皇太子の暗殺などを議論するような場ではなかったことだけは明らかである。

文子の徹底した平等思想

二人の真の思想は、調書で繰り返し語られているように、アナーキズムですらなく、ニヒリズム(虚無主義)である。このことは判決も認定している。文子の思想はこの世の中の生物界における弱肉強食こそが宇宙の法則であり、無権力無支配の社会の建設などと言う幸福な考え方(これがアナーキズム)に反対し、すべての権力を否認し、人類そして生命の絶滅を期すというすさまじいニヒリズムである(第3回予審調書)。
文子は、立松判事から天皇制についての考え方を問われ、次のように答えている。
「私はかねてから人間の平等ということを考えています。人間は人間として、平等であらねばなりません。人間の平等の前には、馬鹿もなければ、利巧もなく、強者もなければ、弱者もなく、地上における自然的存在としての人間があるのみです。そういう人間の価値は、完全に平等であり、すべての人間が人間であるというただ一つの資格によって、人間の人間たる生活の権利を完全に、かつ平等に享有すべきはずのものです。」と述べている(第12回予審調書)。人間が平等であることを根拠として、天皇制を否定しているのである。
そして、捜査の後半には、「自分は生を呪いすぎた」と反省し、「圧制者に反逆することは、人間がすることの中でただ一つの善であり、美である」とも述べるようになる。

栗原一男の語る文子

逮捕される直前の時期のころの文子の素顔を伝える証言が瀬戸内寂聴氏の栗原一男に対するインタビューとして「余白の春」の中に遺されている。少し長くなるが、文子の人となりと平等思想の内実が、活き活きと示されていると思うので、引用してみる。
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「一男が朴烈方に同居していた頃(1923年春から夏ころと考えられる-引用者注)、夜おそく文子と二人で伝単を張りにいったことがある。大きな紙だと持ち運びに目立つので、掌の中に入るような小さな伝単をつくり、それを掌に握って、通りすがりに、ぺたっぺたっと、塀や、電柱にはりつけていくのである。
十二時近くまで二人は歩き廻って、すっかり疲れ、空腹になってきた。二人の懐をさぐりあってみたが、金はほとんどない。ようやくかき集めて合わせて二十銭ばかりになった。たまたま、麻布の橋の袂に夜泣きうどんの屋台が出て、だしの匂いがうまそうに闇にただよってくる。もうがまん出来なくなり、ふたりでうどんをたべようとかけよっていった。
すると、文子が、屋台の向こうの橋のかげにうずくまった路傍の人影を見つけた。屋台の灯にすかしてみると、ぼろくずのかたまりのような女乞食だった。
文子は何と思ったのか。屋台を素通りして女乞食のそばにしゃがみこみしきりに話しかけている。なかなかもどって来ないので、空腹で一男はどなった。
「早くうどんをたべて帰ろうよ」
「ちょっと待ちなさい」
まだぐずぐずしてようやく文子はもどってくると、
「さ、帰りましょう」
 という。
「えっ、うどんたべないの」
「だめよ、お金がないの」
「だって、二十銭あったじゃないか、今」
「あれ、ないのよ、もう」
「どうして」
「あの乞食の身の上があんまり可哀そうなんだもの、あげちゃった」
「ええっ、二十銭、みんな?」
「ええ、みんな」
 一男は呆れて物がいえなくなった。文子はにやにやして首をすくめただけで、さっさと歩き出す。
「あの時くらい腹がたったことはないなあ。しかし、そういう人なんだよ文子さんは。人の不幸を聞くと、乞食の嘘かもしれないなんて考えず、なけなしの金をはたいてしまうんだな。感情家で、純真で、お人好しなんだ。朝鮮での悲惨な思い出話や、朝鮮人がどんなに虐待されていたかなどという話になると、もう自分のことばに酔ったように激昂してしまって、涙を流しながら、とどまるところを知らない早口でとめどもなくまくしたてるんだな。朴烈がこまって、もういいかげんにしろなんていっても聞かない。どこまでも喋りまくる。そういうところがあった。しかし親切であたたかい女でしたよ。ちっともかまわなかったけれど、いい女だった。美人じゃなかったかな。子供みたいに小さいけれど。かわいらしかったね。」
この場面は映画でも描いてほしかった。ユーモラスで茶目っ気のある文子をチェ・ヒソならどんな風に演じただろうか。文子と朴そして栗原たち、不逞社の仲間達の政治活動の実態が、夜陰に乗じてステッカーを街に貼るというようなレベルのものだったことがわかる。そして、文子が虐げられた者たちに示した底抜けのシンパシーも示されている。

生きとし生けるものへの慈しみ

こんな歌もある。これは逮捕され拘置所の獄庭で女看守と共に草引きをしたときの歌である。
「うすぐもり庭の日影に小草ひく獄の真昼はいと静かなり」
「指に絡み名もなき小草つと抜けば、かすかに泣きぬ「我生きたし」と」
女性看守の生活の厳しさに思いを致した歌も遺されている。
「塩からき めざしあぶるよ女看守の くらしもさして 楽にはあらまじ」
このように、文子の思想は幾重にも重層化しており、文子は、すべての生を呪いながら、この小草のような小さきものたちの生命を慈しむような感性も兼ね備えていたのである。
1925年5月と11月に書かれ、裁判所に提出された書面こそが、文子の到達した思想である。それは、もちろん彼女が愛読していたニヒリストであるマックス・スチルネル『唯一者とその所有』に想を得たものであるだろうが、文子の苦難の半生を通じて掴み取られた生きた思想だった。しかし、これは、文子の獄中の二年余の思索を重ねて到達したものであり、逮捕される前に二人が考えていたことと同一ではないだろう。

文子の両親に対する複雑な思い

また、大審院判決には文子は「骨肉の愛を信ぜず、孝道を否定し」と書かれている。確かに獄中手記の中では、祖母だけでなく、父や母に対する仮借ない批判が展開される。しかし、手記の冒頭は、次のような父の回想から始まる。
「私の思出からは、この頃のほんの少しの間だけが私の天国であったように思う。なぜなら、私は父に非常に可愛がられたことを覚えているから……。私はいつも父につれられて 風呂に行った。毎夕私は、父の肩車に乗せられて父の頭に抱きついて銭湯の暖簾をくぐっ た。床屋に行くときも父が必ず、私をつれて行ってくれた。」
また、判決の日に文子のもとに面会のために訪ねてきた母のことを詠んだ歌が遺されている。
「意外にも 母が来りて 郷里より 監獄に在る 我を訪ねて」
「詫び入りつ 母は泣きけり 我もまた 訳もわからぬ 涙に咽びき」
そして、父親についても、こんな歌が遺されている。
「早口と 情に激する 我が性は 父より我への かなしき遺産」
複雑ではあるけれども、どれも素晴らしい親子の情愛の込められた歌ではないだろうか。文子の思想性は一筋縄では読み解けない。
次回は、文子と朴の大逆事件とされる刑事事件の実相を掘り下げてみたい。

 



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