憲法改正
2021年01月10日
渡辺秀樹『芦部信喜 平和への憲法学』を読む
芦部憲法学は現代日本の民主制と司法の陥っている危機に抗する希望の星だ
=渡辺秀樹『芦部信喜 平和への憲法学』を読む=
第1 本書の概要
岩波書店から、渡辺秀樹著『芦部信喜 平和への憲法学』が公刊された。
この書籍は、信濃毎日新聞の論説副主幹を経て編集委員をされている渡辺秀樹氏の手になる憲法学者芦部信喜(以下単に「芦部」と略させていただく)の評伝である。信濃毎日新聞に連載されていたものを加筆改稿して一冊の本にまとめ上げたものである。
渡辺氏は、法律家ではない。芦部の講義を受けたわけでもない。同郷という以外の接点はない芦部氏の足跡をジャーナリストらしく、徹底的に調べ上げて、インタビューと収集した資料で語っていく。新聞記者らしく、無駄のない文体の中に、芦部憲法学の誕生、発展、進化の過程が語られている。素晴らしい評伝が、日本が憲法の危機に見舞われているときに出版された。章ごとに内容を確認していこう。
第1章
源流 伊那谷から
赤穂尋常高等小学校で、民俗学者であった向山雅重の実地教育、社会の実態を徹底してスケッチしていく教育を受けたことが説明されている。この教育が、後世の立法事実論につながったという。
また、伊那中学では東京帝大を卒業した直後の臼井吉見(雑誌『展望』の初代編集長)の指導を受けている。芦部の憲法学が学理ではなく人間の生活に根ざしていることは、この二人の指導者の指導を受けたことの影響が認められると思う。
伊那中5年の時、信濃宮神社の造営のために動員されたこと、学徒動員で軍務に服し、厳しい規律の中で苛め抜かれ、自らも特攻候補生であった特別操縦見習士官の一次試験まで合格し、遺書を書き、遺品を母あてに送っている。多くの学友を戦争で失った。戦後は、農村文化運動に参加する。この時期に芦部が創刊した雑誌「伊那春秋」に寄せた一文が引用されている。
「敗戦後我々は唯過去の日本精神の代わりに、無批判にマルクスやレーニンの或いはアメリカニズムの阿片に陶酔していはしないか。或いは又、選民思想皇道哲学以外何物も現実の矛盾を分析できなかった盲従の過去を深く反省せず、敗戦の責任を全て戦争責任者に集中させていはしないか」
この一文に、芦部のその後の憲法学の原点が込められているように思う。
その後に芦部は東大に復学し、リベラリスト宮沢俊義の助手として研究者となる。
第2章
憲法改正と自衛隊
岸政権の下で進められた憲法改正調査会に、芦部の師宮沢は憲法問題調査会を組織して抵抗した。芦部は、憲法改正、九条改正に対して批判的な論考を次々に発表していく。無罪判決(自衛隊の憲法判断は回避)を勝ち取った恵庭事件で特別代理人となった深瀬忠一を芦部は背後から支えた。
1969年長沼事件が発生、1973年には福島裁判長による無罪判決が出される。憲法判断を回避することなく、自衛隊は憲法が禁ずる戦力であるとしたのである。この判断には、憲法違反が重大で、紛争の根本的な解決が必要な時には憲法判断を回避するべきでないという考えが示されている。芦部が憲法判断を安易に回避するべきでないと唱えていた考えにつながる。
第3章
人権と自由
芦部が珍しく法廷で証言した総理府統計局事件。選挙に関連する統計局の3人の事務官が庁舎の通用門で都議選に関する記事の掲載された組合ニュースを配布した事件である。この裁判で、芦部は1970年7月東京高裁で、立法事実論、合憲性審査の方法、アメリカにおける判例理論などを説明し、政治活動の制限規定は優越的な地位を保障されるべき表現の自由を制約するものであり、公務員に対する政治活動の制限規定は厳しく限定解釈すべきだと証言し、一審有罪判決を覆す無罪判決を導いた。
この証人尋問を担当したのは、私の所属する東京共同法律事務所代表の宮里邦雄弁護士である。
この章では、猿払事件、教科書裁判、堀木訴訟など現代につながる多くの憲法裁判に意見書を提出するなどして協力した芦部の姿が、事件を担当した弁護士への取材も踏まえて詳細に語られている。
第4章
国家と宗教
本章では、中曽根首相の靖国神社公式参拝の是非を議論した、「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」における芦部の奮闘ぶりが分析されている。基礎となった資料は、著者自身が情報公開によって開示に成功した二回から十二回まで議事録、委員であった佐藤功旧蔵資料、芦部が残した論考などから、再現している。列席していた阪田元内閣法制局長官によれば、公式参拝に賛成と反対は8対7だったという。収録されている顕名の議事録では、憲法学者の芦部、佐藤、田上譲治、文学者の曽野綾子、梅原猛と、元最高裁判事の横井大三の6人が反対意見を述べていることが確認できる。辞任すべきかを迷った末に、芦部は、少数派の違憲意見をきちんと残そうとしたのである。
本章と第5章では、自衛官合祀訴訟へのかかわり、天皇代替わり時の大嘗祭への政府支出の違憲性を問う裁判(佐野通夫教授らが原告)の取り組みまでが紹介されている。
第5章 象徴天皇制とは何か
本章は、天皇制に関する芦部の考え方を探ろうとした章である。著者が頼ったのは、東大出版会が学生のノートをもとに、教授本人の校閲を経て出版していた講義録である。
ここで、芦部は、憲法は、明治憲法下の統治権の総覧者の地位を否定した喪失した結果象徴としての役割が前面に出ているのであり、天皇には象徴としての役割以外の役割を持たないことを強調すべきだとしている。
第6章 インタビュー 芦部憲法学から現代を問う
この章では、合計13人の縁があった憲法学者や最高裁判事などの方々の芦部憲法学に寄せる思いが語られている。どれもなかなか興味深いが、前川喜平氏は、芦部の講義を何度も繰り返し聞いたというインタビューが目を引いた。近年の前川氏の活躍の基礎には、芦部憲法学があったのかと合点がいった。
番外編 二つのスクープ
靖国懇の議事録の情報公開と長野県をはじめとする多くの自治体トップが護国神社に公式参拝していたことを報じたスクープ記事の再録と後日譚である。
附録 「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」第七回議事録
第2 芦部憲法学は現代日本の民主制と司法の陥っている危機に抗する希望の星だ
私は1974年に東大法学部に入学し、憲法の単位は小林直樹先生の授業で取得した。しかし、芦部先生(ここでは「先生」をつけさせてもらう)の講義には欠かさず出席しノートを取った。「国法学」という単位が憲法とは別に開講されており、この単位は取得した。
この講義は「憲法改正には限界があるのか」という問いに対する答えを見出すための格闘のような講義であった。芦部先生は、繰り返し憲法改正には限界があるのだ、近代憲法の中核となる価値、人権保障、国民主権、平和主義は、憲法が改正されたとしても、変えてはならないものだと説いてやまなかった。
憲法改正が具体化されるはるか前の段階で、芦部先生には近い将来に憲法改正が問題になる予感があったのだろう。
この講義の内容は、1983年には、「憲法制定権力」として公刊されている。
現代の日本、憲法改正を目的に掲げた安倍政権が終わった。しかし、新たに政権について菅首相も憲法改正を目標に掲げている。国会の中には、自民党以外に憲法改正に否定的でない勢力が増しているように見える。
政治にかかわる記録が信頼できず、確立していたはずの法解釈が、政権・官邸の都合で変えられる。公文書の改ざん・隠匿は日常化している。
このような行政府の異常な状態を正すのは、1つには国民から国政を預かっている不偏不党のはずの官僚の矜持であり、2つは立法権を持つ国会とりわけ野党の国会での質問権を駆使した行政の是正であり、3つは独立した司法による違法な行政の是正であり、違憲な立法の違憲審査を通じた統制のはずである。
しかし、官僚は政権による人事局の恣意的な人事運用によって、口を封じられ、政権は国会をほとんど開かなくなった。そして、政権は最高裁判事の任命まで意のままにあやつり、最高裁の不都合な判断がなされないよう、最高裁人事を通じて防衛ラインを築こうとしている。今年、黒川検事長問題・検察庁法改正として問題となったことは、政府幹部の犯罪・不正を追及しなければならない検察のトップに官邸の意のままになる人物を据えようとして起きたことであった。
憲法学は、政治があらぬ方向に向かわないように、これを掣肘するために存在する。芦部憲法学は、内外の憲法学の研究を深め、日本の最高裁が適用できる形にして提示した、戦後憲法学の至宝である。
かつて、憲法改正を目指していた中曽根氏は、自らの公式参拝の是非を論ずる靖国懇のメンバーとして芦部を招いた。確かに委員の数の多数で違憲論を押し切ろうとしたことは批判しなければならないが、学術会議の指名についての中曽根氏の答弁を見ても、中曽根氏には、憲法学、さらには学術に対する敬意が残っていたように思う。これに対して、安倍首相は芦部教授の名前を知らないと国会で答弁している。そして、その後継である菅首相は学術会議のメンバーを政権の好き嫌いで判断してかまわないと考えているようだ。法学をはじめとする学術に対する敬意が政権中枢から消滅しているようだ。トランプ政権を先頭に世界に蔓延する反知性主義の独裁政治に日本の政治も同調していこうとしているようにみえる。このような時期に芦部憲法学の歩みを人間芦部の歩んだ道をたどって明らかにしてくれた、渡辺秀樹氏の労作『芦部信喜 平和への憲法学』が出版されたことに心から感謝する。
荒廃した日本の政治と、これに追随しているように見える司法のただなかで、私たち法律家はあきらめることなく、人々の生活の現場で救済しなければならない新たな課題を見出し、裁判官の良心を励ましながら、積極的な司法判断を引き出し、その解決に全力で当たると同時に、政治と立法にも働きかけながら、人々の生活を改善できるような法制度の確立のために立ち働いていかなければならない。また、人権と民主主義を崩壊に導くような立法・憲法改正の企てには全力で抗しなければならない。そのとき、芦部先生の指し示した憲法学は、希望の星であり、定点である北極星としてゆるぎなく輝いている。2019年10月18日
憲法改正の議論の前に、知っておくべきこと -ポツダム宣言の受諾から日本国憲法の制定まで-
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憲法改正の議論の前に、知っておくべきこと
-ポツダム宣言の受諾から日本国憲法の制定まで-
海渡 雄一
はじめに
安倍政権は、いよいよ憲法改正の発議を目指すことを公言するようになった。日本国憲法の改正の是非について議論するためには、日本が15年戦争に敗北した時に、国際社会に対して、どのような約束をしたか、どのような経過で現在の憲法が制定されたかを知る必要があると思う。憲法について議論する前提となる基礎的な事実の確認のために、事実を整理した。
第1 戦争する国を支えていた法制度とその復活
1 戦争する国のシステムと安倍政権による復活
日中戦争とこれに引き続く太平洋戦争は、近代日本の総力戦であった。そして、そのためには、兵器や軍隊を整えるだけでなく、戦争を遂行するための法体制を作り上げることが必要であった。私は、2017年に、「戦争する国のつくり方: 「戦前」をくり返さないために」という本を上梓した。この本の中で書いたことをまとめると、次のようになる。
戦争遂行するためには、まず第一に戦争を行う主体をつくることが必要であった。これが戦前では大本営であり、安倍政権の下であらたに設けられた国家安全保障会議がそれに該当する。
第二に、戦争に反対する勢力を無力化する治安維持法などの法制が整備され、戦争に反対する諸勢力が非合法化・あるいは活動を大きく制限された。これが、現代的に復活したのが、新共謀罪であろう。
第三に、一般国民を戦争に協力させるための、教育勅語・軍事教練・靖国神社などの思想・道徳の徹底のための教育がなされた。今、日の丸と君が代強制が教育現場で進み、道徳教育が教科化されている。
第四に、戦争のためにすべての物質的・社会的資源を動員することのできる国家総動員法や徴兵制度などの法制度が整備された。これを現代によみがえらせたものが、有事法制であり、自民党改憲草案と安倍改憲案に含まれている国家緊急権条項であろう。
第五に、戦争の準備の過程と戦意の高揚のために不都合な情報は隠ぺいできる情報管理体制を確立することが必要であり、1937年に制定された改正軍機保護法や1941年に総力戦体制とともに制定された国防保安法がそれにあたった。これを現代的に復活させたのが、特定秘密保護法である。
第六に、国民を戦争に誘導するために、内閣情報局のもとで報道出版の検閲統制がなされ、隣組による市民の相互監視が強められ、戦争非協力者には配給上の不利益までが課された。軽快な「隣組」の歌は、実は戦争動員の歌だったのである。
現代では、報道機関に対する脅しとキャスター外し、高市総務大臣の偏向放送の停波発言、NHK人事への介入が露骨になってきている。市民に対するデジタル監視のシステムも強められている。
2 安倍内閣は戦前の戦争法体系を現代型にして蘇らせようとしている
政府は、まず解釈改憲と個別安全保障法の改正を先行させ、既成事実を軸にその後に憲法改正を提起する計画のようだ。
2013年秘密保護法、2014年集団的自衛権を認める閣議決定、2015年平和安全法制=戦争法の制定、2016年高市電波停止発言、刑事訴訟法改正(盗聴法の大幅拡大による市民監視の強化、司法取引の導入)、2017年共謀罪制定など、安倍政権の一連の政策は、市民の抵抗を力と脅しによって黙らせ、憲法を改正し、国民を戦争に動員することのできる法体制へと導こうとしているようにみえる。
そして、安倍政権は今開かれている臨時国会あるいは引き続く通常国会に改憲案の提起を行おうとしている。このような、政策誘導は、日本という国を敗戦以前の戦争できる国とすることをもくろんでいるように思われる。
第2 ポツダム宣言の受諾はなにを意味したか
1 15年戦争の敗北とポツダム宣言の受諾
日本の戦後の歴史を規定しているものは、ポツダム宣言の受諾である。ポツダム宣言の受諾こそが日本の戦後の国のかたちを作った。ポツダム宣言の受諾は日本政府の非武装化を意味した。1945年7月26日に米・英・中の三か国が発した「ポツダム宣言(抄)」を確認しよう。
「日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
我々の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。
日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。
第6条の新秩序が確立され、戦争能力が失われたことが確認される時までは、我々の指示する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は占領されるべきものとする。
カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。
我々の意志は日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。
日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争と再軍備に関わらないものが保有出来る。また将来的には国際貿易に復帰が許可される。
日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。
我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである。」
2 ポツダム宣言を受けて日本政府がやったことは、機密重要書類の焼却であった。
政府は1945年8月14日に、ポツダム宣言を受諾したが、同日 「機密重要書類焼却の件」を閣議決定した。戦争はなかったものにしようと、戦争に関する一切の資料を焼却して、自ら開始した戦争を歴史から消し去ろうとした。この通知も焼却するように指示されていたが、焼却をまぬかれた原本が松本市に保管されている(写真を添付した)。軍と官僚による戦争の証拠隠滅である。 占領軍GHQの調査が始まるまえに、焼却を急いだのである。そして、軍関係、裁判所、町村役場、学校、地域では、数日をかけて重要書類を焼却、廃棄した。裁判所でも治安維持法違反事件の判決などを焼却した。
3 軍と秘密警察は解体された
9月2日米艦ミズーリ号上において重光葵外相が降伏文書に調印した。ポツダム宣言によって軍は解体された。戦後改革の第1は軍の解体であった。アメリカを中心とする連合国は、日本の侵略戦争とファシズムの根源を断つため、まず非軍事化を強力に進めた。
帝国陸軍と海軍の解体、軍需産業の生産停止、軍国主義者の公職追放、修身・歴史教育の禁止、国家と神道(しんとう)の分離などが進められた。
4 昭和天皇の平和国家宣言
昭和天皇は、降伏文書調印の2日後9月4日の帝国議会開院式の勅語で「朕は終戦に伴ふ幾多の艱苦を克服し国体の精華を発揮して信義を世界に布き平和国家を確立して人類の文化に寄与せむことを冀ひ」と述べ、戦後日本がめざすべき国家像を「平和国家」だと宣言した。
この発言は、自らの戦争責任を免れるための占領当局に対するアピールとも受け取れるが、ポツダム宣言に意味を正確に理解したものであったと評価することができるだろう。
5 自由の回復 治安維持法と軍機保護法の廃止と特高警察の解体
まず、新聞の自由が回復された。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、1945年9月24日に「新聞界の政府からの分離に関する覚書」、同9月27日に「新聞および言論の自由に関する追加措置」(ただし29日付)を発し、これにより新聞紙法は事実上失効した。哲学者の三木清が、9月26日に豊多摩刑務所で死亡したことが報道され、GHQは治安維持法違反の政治犯が囚われたままであるという事実に衝撃を受ける。
しかし、日本政府は自主的には治安維持法の廃止や特高警察の解体などは行わず、1945年10月の段階においても、岩田宙造司法大臣は「司法当局としては、現在のところ政治犯人の釈放の如きは考慮していない」と断言していた。岩田は予防拘禁されている者も含めて釈放の意思はないと外国人記者に言い放っていた。
フランス人ジャーナリストのロベール・ギランらの努力により、多くの日本共産党員が豊多摩刑務所内の予防拘禁所に拘禁されていることが明らかになった(『東京発特電』)。
6 1945(昭和20)年10月4日には「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」が発せられた
1945(昭和20)年10月4日、GHQが、自由を抑圧する制度を廃止するよう命じる指令を発した。正式には「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」という。「人権指令」とも呼ばれる。この指令は、思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、内務大臣・特高警察職員ら約4,000名の罷免・解雇、政治犯の即時釈放、特高の廃止などを命じていた。
東久邇宮内閣はこの指令を実行できないとして、翌5日に総辞職した。つぎの幣原内閣では、この指令に基づき共産党員など政治犯約3,000人を釈放、治安維持法など15の法律・法令を廃止した。
戦前の法制で廃止するものについて、この指令の中で説明されている。
一、政治的、公民的、宗教的自由に対する制限並に種族、国籍、信教乃至政見を理由とする差別を除去する為日本帝国政府は
a、左の一切の法律、勅令、命令、条例、規則の一切の条項を廃止し且直に其の適用を停止すべし
(一)思想、宗致、集会及言論の自由に対する制限を設定し又は之を維持せんとするもの 天皇、国体及日本帝国政府に関する無制限なる討議を含む
(二)情報の蒐集及公布に関する制限を設定し又は之を維持せんとするもの
(三)其の字句又は其の適用に依り種族、国籍、信教乃至政見を理由として何人かの有利又は不利に不平等なる取扱ひを為すもの
治安維持法・予防拘禁制度と軍機保護法・国防保安法、宗教団体法が廃止された
b、前項aに規定する諸法令は左記を含むも右に限定せられず
(1)治安維持法
(2)思想犯保護観察法 (3)施行令
(4)保護観察所官制
(5)予防拘禁手続令(6)予防拘禁処遇令
(7)国防保安法 (8)施行令
(9)治安維持法の下に於ける弁護士指定規程
(10)軍用資源秘密保護法 (11)施行令(12)施行規則
(13)軍機保護法 (14)施行規則
(15)宗教団体法
(16)前記法律を改正、補足若くは執行するための一切の法律、勅令、命令、条例及規則
7 GHQ 5大改革指令のトップは秘密警察の解体であった
1945年10月11日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは当時の首相幣原喜重郎に対し、五大改革指令を命じた。秘密警察の廃止/労働組合の結成奨励/婦人解放(家父長制の廃止)/学校教育の自由化/経済の民主化(財閥の解体、農地の解放)などが含まれた。特高警察の解体こそが、戦後史の要だったことがわかる。公安警察のトップであった北村滋氏が内閣情報官から国家安全保障局長にまで登り詰めたことは、歴史を逆行させる重大な意義を持っている。
第3 日本国憲法制定の経緯
1 憲法問題調査委員会の時代錯誤
10月25日 憲法問題調査委員会が設置された。委員長松本であった。11月22日 には近衛文麿が「帝国憲法改正要綱」を天皇に上奏した。11月29日には米統合参謀本部がマッカーサーに天皇の戦争犯罪について調査を指示した。12月6日にはGHQが近衛を戦犯に指名。近衛は服毒自殺(16日)した。12月8日 松本国務大臣は衆院で憲法改正4原則を示した。天皇統治権は不変/議会の議決事項拡大/国務大臣の責任拡大/人民の自由・権利を拡大が4原則である。
2 松本案は閣議決定されていない。GHQ案の受け入れは閣議決定された。
1946年1月1日には天皇神格否定・人間宣言を行った。1月19日にはマッカーサーが極東軍事裁判所憲章を承認とその設置を命令した。1月24日には幣原・マッカーサー会談がもたれ、天皇制の維持と戦争の放棄を幣原から提案したとされる。異論はあるが、ほぼ定説といえる。1月26日には、松本烝治国務大臣が松本甲案を閣議に提出したが、閣議決定とならなかった。
2月3日には、マッカーサーが、GHQホイットニー民政局長に憲法改正三原則を示した。
① 天皇は国の最高位の地位にある。
② 国権の発動たる戦争は廃止する。日本は自己の防衛と保護を世界を動かし筒ある崇高な理想に委ねる。陸海軍は将来も与えられることなく、交戦権も与えられない。
③ 日本の封建制度は廃止される。予算はイギリスの制度に倣う。
2月8日 松本は閣議決定を経ないままGHQに「憲法改正要綱」を提出した。2月13日 GHQは松本案を拒否し、GHQ案を手交した。2月19日 松本委員長が閣議でGHQ案を手交されたことを説明した。2月21日 幣原・マッカーサー会談(3時間)「戦争を放棄してフォロワーがいるか?」などと議論したとされる。2月22日 松本、吉田、白洲がホイットニーと会談(1時間半)し、幣原は吉田、棚橋とともに天皇に拝謁、天皇はGHQ案を支持、午後閣議でGHQ案の受け入れを決定した。
3 日本政府とGHQの協議でまとめられた改正要綱
3月4日 松本国務大臣、入江俊郎法制局次長、佐藤達夫法制局第1部長らが、GHQ案を参考に日本案を作成し、GHQに提出した。その審議は30時間に及んだ。3月6日 憲法改正要綱が発表され、同時に天皇の勅語、幣原首相の談話、マッカーサーの声明が付されていた。
4月10日 衆議院総選挙が婦人参政権のもとでの初の選挙がなされた。4月17日 作家の山本有三らの要望により、憲法改正要綱は口語化されて公表された。4月26日 2月末に、極東委員会の密命を帯びて来日していたコールグローブGHQ憲法問題担当政治顧問は、極東委員会議長に対して、日本でマッカーサーの評価は高く、国民は憲法案を支持していると書簡を発した。5月3日には東京裁判が開廷された。5月13日 極東委員会憲法採択の三原則を示す(十分な審議時間、明治憲法との法的な継続性、国民の自由な意思表明)。
5月22日 第一次吉田内閣が発足し、憲法担当大臣として金森徳次郎が任命された。
4 帝国議会の憲法審議で9条と25条が改正されている。
6月21日にはマッカーサーは憲法審議に十分な時間を与えると声明した。6月28日 憲法改正草案は衆議院本会議から特別委員会(委員長芦田均)に付託された。7月25日 特別委員会の下に小委員会(委員長芦田均)を秘密会として組織して審議を継続した。
8月1日には、9条、25条を修正した。9条2項に「前項の目的を達するため」を挿入(芦田提案)1項に「国際平和を誠実に希求し」を挿入(鈴木義雄提案)した。25条1項に生存権を付加(森戸辰男提案)した。
8月24日 衆院で帝国憲法改正案を修正可決し、10月6日 貴族院で帝国憲法改正案を可決(9月23日GHQの要請で66条2項に文民条項を加えるよう要求、衆院で9月23日再修正)した。10月7日 日本国憲法帝国議会を通過し、11月3日 日本国憲法は公布された。
5 日本国憲法の施行 ほとんどの日本国民は、日本国憲法、そして戦争放棄を熱烈に支持した
12月1日 憲法普及会が設立され、1947年2月15日憲法普及会は国家公務員700人を東大に集めて研修会を開催した。5月3日日本国憲法が施行され、皇居前広場で記念式典がもたれ、「われらの日本」が歌われる。憲法普及会の小冊子『新しい憲法 明るい生活』が2000万部配布された。
「戦争は人間をほろぼすことです
戰爭の放棄
みなさんの中には、こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとう/\おかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戰爭はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。
戰爭は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戰爭をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戰爭のあとでも、もう戰爭は二度とやるまいと、多くの國々ではいろ/\考えましたが、またこんな大戰爭をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。
9条は戦争の惨禍から生まれた日本国民の平和の誓い
そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
みなさん、あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように、また戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。」
第4 日本国憲法は押し付けられたものではない
1 日本国憲法は押し付けられたものではない
1945-7 日本国憲法の制定と施行過程からわかることは、日本国憲法は押し付けられたものではないということである。
2 松本試案は閣議でも決定されて折らず、正規の日本政府案ではない
松本試案は、明治憲法の焼き直しでしかなく、ポツダム宣言を受諾した意味を正確に理解したものでなかった。閣議でも決定されて折らず、正規の日本政府案ではない。
3 憲法改正草案はGHQと日本政府の協議によって作られた
GHQは世界の進んだ憲法制度を公平に取り入れようとし、また日本側と十分に協議して憲法案が作成された。
4 9条戦争の放棄は保守層を含めて国民の意思に沿い、軍が解体された現実に適合したものだった。
9条戦争の放棄は、日本国民の総意が戦争は二度とごめんだという気持ちであり、軍が解体されていた現実に合わせたものと考えられ、理想を追い求めただけでなく、現実的な根拠があった。
ただ、この意識は戦争に対する被害者意識を主とし、加害責任の自覚に立ったものではなかったという弱点があった。
また、憲法制定の経過には、同じ占領下であったにもかかわらず、沖縄の代表の参加が認められていないという問題があった。
戦争放棄がマッカーサーから指示されたものか、幣原首相の発案かは判然としないが、日本の政治家は、幣原だけでなく、吉田、芦田ら保守勢力も含めてこの考え方に賛成した。帝国議会で改正案に反対票を投じたのは共産党だけである。
5 帝国議会でも、憲法改正案は日本側の意見を容れて修正されている。
憲法の原案はGHQが作成したものであるが、9条の文言の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し 」や生存権の規定などは日本の議会で修正されたものであり、押しつけ憲法という批判は事実とは異なるのである。