証拠開示
2019年10月13日
「人質司法」は、いまや日本の文化 ? ゴーン事件を契機に、まずはみずからの人権状況を知ることから始めよう
「人質司法」は、いまや日本の文化 ?
ゴーン事件を契機に、まずはみずからの人権状況を知ることから始めよう
海渡雄一(弁護士)
3月5日、東京地裁の保釈決定で保釈されたカルロス・ゴーン氏は、再び別件で逮捕された。
ゴーン氏は、日産自動車の資金5億円超をオマーン経由で自身に還流させて会社に損害を与えたとして、会社法違反(特別背任)で追起訴された。
ゴーン氏は、4月25日に再保釈されたが、保釈条件には妻キャロルさんとの接触制限も付いたとされる。
これらの事件を契機として、日本の刑事拘禁制度に国際的な注目が集まっている。本稿は、カルロス・ゴーン事件の罪に問われている事件の内容について論評するものではない。そもそも人質司法とはどういった問題なのか、なぜこのような制度が温存されてきたのか、それを支える世論はどのようしてつくられたのか、それを変える力はどこにあるのかについて考えてみたい。
海外メディアは、なにを問題にしているのか
ゴーン氏は、まず、昨年11月19日に金融商品取引法違反容疑で東京地検特捜部に逮捕され、東京拘置所に拘置された。12月10日には起訴された。同じ日、同一の被疑事実の別件の容疑で再逮捕されている。この件では、検察官の勾留延長申請が12月20日に却下された。さらに翌21日には特別背任容疑で再々逮捕され、今年1月11日に起訴された。
その後、ゴーン氏は二度にわたり、保釈申請したが、1月15日と1月22日の2回にわたり保釈請求が却下され、東京拘置所における拘置が継続されてきた。2月28日に3度目の保釈請求がなされ、3月5日に保釈が許可され、検察官による準抗告も棄却され、6日に、ゴーン氏は自由の拘束を解かれ、保釈された。
ただ、この保釈には10億円の保証金を積むほか、監視カメラの設置、海外渡航禁止、パソコンや携帯電話の使用制限などのきびしい条件が課されていたという。4月4日には、再度東京地検によって特別背任の別件で逮捕され、再保釈されたことは前述した。
多くの海外のメディアは、ゴーン氏に対する保釈が認められず、このような長期の拘置がなされ、取調べが継続されてきたこと、取調べに弁護人の立ち会いが認められていないことなどを取り上げ、日本の捜査実務が、確立した国際人権基準に反すると主張している。したがって今回の事件は、ゴーン氏個人の問題だけでなく、日本全体の問題としても論じられているのである。
国際人権基準と乖離する日本の刑事司法
カルロス・ゴーン事件は東京地検特捜部の捜査にかかる事件であり、警察捜査にかかる事件ではない。ゴーン氏は代用監獄・警察留置場には収容されていない。収容されてきたのは法務省が管理する東京拘置所である。しかし、起訴前の保釈の不在、保釈拒否理由としての「罪証隠滅」の問題、取調べが一つの事件について23日間(勾留延長された場合)継続され、その間捜査機関の取調べがつづくこと、事件を細分化して再逮捕をくり返せば、さらに長期間身柄の拘束が延長されること、取調べに弁護人が立ち会えないことなどは、えん罪の温床として、国際人権機関からくり返し改善が求められてきたことと共通している。問題点を整理してみよう。
長すぎる捜査機関の取調べ期間と取調時間
自由権規約9条3項は、「刑事上の罪に問われて逮捕され又は抑留された者は、裁判官又は司法権を行使することが法律によって認められている他の官憲の面前に速やかに連れて行かれる」と定めている。この規定は、捜査機関が被疑者に対して強制的に取調べ可能な勾留期間は逮捕後24~48時間に限定したものと解釈されている。じっさいに取調べがなされるのは数時間までが一般的である。それに対して、日本では23日間×事件数の期間、取調べが継続され、1日の取調時間は朝から晩まで長時間つづく。このような制度は国際的に類似例を見つけることが困難であり、極めて異例なものである。
1980年代に代用監獄制度が国際的に非難された際に、日本政府は類似の捜査実務が、ハンガリー、フィンランド、韓国の国家保安法違反事件捜査、イギリスのテロ事件捜査にも見られると反論していた。しかし、これらの類似例は国際機関による勧告により順次改善され、数十日も捜査機関による取調べがつづくような制度は世界から一掃されてきた。おそらく日本だけに残っていると考えられる。欧米でも、被疑者が拘置所に行ってから捜査機関による取調べが行われることがまったくないわけではないが、それは、捜査官による面会(任意取調べ)として位置づけられ、被疑者には捜査官と会わない自由が保障されている。
逃走の恐れのない事件は、重大事件でも逮捕の数日後に保釈されるのが国際スタンダード
自由権規約の9条3項は「裁判に付される者を抑留することが原則であってはなら」ないと定めている。裁判所に事件が送致された後は、裁判所が保釈(条件付き釈放)することができるのが、自由権規約9条3項の要求する国際水準である。自由の拘束を継続する根拠は裁判への出頭の確保、すなわち逃走の防止に限定されなければならない。
取調べに対する弁護人立ち会いの否定
自由権規約14条3項(b)は「防御の準備のために十分な時間及び便益を与えられ並びに自ら選任する弁護人と連絡すること」と定めている。この規定は捜査の全過程において、弁護人の援助を受けられるようにすることを保障している。日本の実務において行われている異常な長期間・長時間の取調べを前提とすると、その全部に立ち会うことは絶望的とも考えられるが、国際的には、1人の被疑者について、取調べの平均時間は数時間が平均的な実務であり、接見のため23日間にわたって何度も警察に訪問している日本の弁護実務からすると、取調べの期間、時間が国際基準に沿って限定されれば、弁護人の取調べでの立ち会いは十分可能である。
全面的な証拠開示がなされていない
自由権規約14条3項(b)の定めている刑事上の罪の決定についての「十分な時間及び便益」は、捜査機関が収集したすべての証拠に対して、弁護人にアクセスする権利を保障することを求めていると解釈されている。捜査機関の手持ちの証拠に対する全面的な証拠開示は、アメリカだけでなく、ヨーロッパ人権裁判所、自由権規約委員会などによっても認められてきた。日本における証拠開示は、公判前整理に付された事件について、類型証拠、争点関連証拠に限って行われている。控訴審や再審では、裁判所の職権行使に依存する証拠開示手続きしか存在しない。
取調べのもつ意味を変えなければならない
歴史をさかのぼれば、ヨーロッパの国々でも拷問によって自白を獲得することが正式の捜査手続きとなっていた時代もあった。しかし今日、そのような考えは清算され、国際人権基準において、取調べにあたっては、逮捕時点における被疑者の弁解内容を記録しておくことであり、否認しているものを長時間取調べて、自白させるような取り扱いは否定されている。
日本においては、捜査機関による取調は、真実をあきらかにする、罪を認めさせて反省させるための手続きであると考えられている。2005年に愛媛県警でつくられた取調べ要領には「調べ室に入ったら自供させるまで出るな」「否認被疑者は朝から晩まで調べ室に出して調べよ。被疑者を弱らせる意味もある」などと記載されている。この資料の存在については、警察も認めている。ゴーン事件で海外のメディアから問われていることの根源もここにある。このような取調べの位置づけを根本から変えなければならないのである。
解決のチャンスだった村木事件と検察証拠改ざん事件
日弁連は政府による拘禁二法案の提案以来約40年にわたって、代用監獄の廃止、取調べ期間・時間の制約、取調べの可視化、起訴前の保釈制度の導入、弁護人の取調への立ち会いなどを求めてきた。しかし、2006年の監獄法改正時にもこの課題は実現できなかった。
09年7月には元厚生労働省の村木厚子氏が逮捕され、10年9月に村木氏に対する無罪判決が下された。同時に朝日新聞が検察による証拠改ざんを公表した。10年10月には検察の在り方検討会議が発足し、刑事手続きの改革の気運が高まった。11年には法務省の法制審議会に「新時代の刑事司法制度特別部会」が設けられ、14年にその答申がなされた。
この答申により、取調べの可視化の進展、証拠リストの開示、国選弁護の拡大、公判前整理手続きの申立権などの一定の改革・改善は勝ち取られた。他方で通信傍受の対象犯罪の拡大と手続の柔軟化、ゴーン事件にも使われた司法取引の導入など、捜査機関側の権限も大幅に拡大された。そして、起訴前保釈や罪証隠滅を理由として保釈を拒否できる実務の改善、弁護人の取調べへの立ち会い、捜査機関が収集した証拠の全面開示などの改革課題は積み残しとなってしまったのである。
2019年10月徳島人権大会で問われた、日本の刑事司法の後進性
2019年10月徳島市で開催された日弁連の第62回人権擁護大会で、提案されていた三本の宣言と決議が採択された。
・「弁護人の援助を受ける権利の確立を求める宣言」
取調べ立会いが刑事司法を変える
・個人通報制度の導入と国内人権機関の設置を求める決議
・えん罪被害者を一刻も早く救済するために再審法の速やかな改正を求める決議
の三本の宣言と決議である。私も、もちろんすべての宣言・決議に賛成したが、 ここで問われている刑事弁護の実質化、国際人権保障システムの確立、再審法改正は、日本で速やかに求められている刑事司法・刑事拘禁制度の改革を求める意見だ。
弁護人が取り調べに立ち会うということは、欧米や韓国でも実現している。弁護人が依頼者である被疑者の取調に同席してアドバイスできることは、弁護士のあり方としても当然である。そして、この課題は、本校でも述べた、取り調べ受忍義務の否定、黙秘権の行使の実質化、取り調べ期間・時間の制限、起訴前の保釈の実現、代用監獄の廃止などの課題についても同時に取り組む必要がある。
国際人権保障をめぐるシンポジウムでは、ヘイトスピーチの深刻な被害、入管収容の長期化、子どもに対する虐待・いじめなどの深刻な人権侵害について、今の制度だけでは対応できていないことが報告された。
大崎事件の最高裁決定は、再審開始決定に対して、検察官抗告を認める制度の理不尽さを改めて浮き彫りにした。裁判が終わっているのに、証拠がなかなか開示されないことも、法制度の不備といえる。
この写真は昨日の3日のシンポジウムでのえん罪犠牲者・家族の東住吉事件の青木恵子さん、湖東病院事件の西山美香さん、布川事件の桜井昌司さん、足利事件の菅谷利和さん、袴田事件の袴田巌さんを支えた姉袴田秀子さんである。
えん罪が一人の人間のかけがえのない人生を破壊してしまう恐ろしい人権侵害であることが明らかにされた。私もいくつかの再審請求事件にかかわっている。再審法については、再審請求手続きにおける全面的な証拠開示と再審開始決定に対する検察官による不服申し立ての禁止を求める決議が採択された。これらの決議の実現は、どれも待ったなしの課題である。
問われているのは、日本国民全体の人権である
主要マスメディアには報道されないが、全日建連帯関西生コン支部の役員と組合員60人以上が、争議行為やコンプライアンスを理由に威力業務妨害などの罪に問われた。中には1年以上も長期に勾留されている組合役員もいる。
「ゴーン氏だけを特別扱いをするわけにはいかない」「日本には日本のやり方がある。文化の差」といった意見があるが、日本の刑事手続のもとでは今後もえん罪の発生は避けられない。日本国民に対する人権侵害を防止するためには、刑事司法制度そのものを改革するしかない。カルロス・ゴーン事件は日本の刑事司法・刑事拘禁者に対する処遇が国際人権基準から見て容認できないほど、時代遅れとなっていることをあらためて浮かび上がらせた。まず、このことを多くの国民が知る必要がある。この問題は法律家などの専門家だけでは解決できない。1人でも多くの国民が、みずからの人権状況の真実を知ることが、改革の出発点となるだろう。
2019年10月09日
大崎事件最高裁決定にみる司法の退廃と劣化
2019年7月
まだ最高裁はあるか?
大崎事件最高裁決定にみる司法の退廃と劣化
海渡 雄一
大崎事件最高裁決定の衝撃
最高裁判所第一小法廷(小池裕裁判長、池上政幸、木澤克之、山口厚、深山卓也裁判官)は、6月25日付で、大崎事件第3次再審請求特別抗告審において、再審開始を認めた原決定(福岡高裁宮崎支部)および原々決定(鹿児島地裁)を取り消し、自判して原口アヤ子さんの雪冤の願いを無惨に踏みにじる再審請求を棄却すると決定した。
決定はその冒頭で「本件抗告の趣意は、判例違反をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張であって、刑訴法433条の抗告理由に当たらない」と述べている。にもかかわらず、職権で判断をするとして、事件の中身について判断を進めている。
最高裁は通常の裁判手続きで高裁の判断を覆すときには、口頭弁論を開き、当事者の意見を直接聞く。ところが、本件では弁護人の意見を聞く機会を設けたことすら一度もなかった。地裁と高裁が再審開始を判断した際の決め手となる吉田鑑定意見書について、最高裁は、吉田氏の高い見識を認めている。にもかかわらず、最高裁は、遺体の腐敗が著しく、また写真のみによる鑑定であることから、吉田鑑定の証明力には限界があるなどとして、吉田氏に説明や反論の機会さえ与えず、差し戻しではなく自判した。このような判断手法は、えん罪に泣く者への同情心のかけらも最高裁判事は持ち合わせていないことを示している。
(記者会見中に涙をこらえる鴨志田祐美弁護士)
私が、まず指摘したいことは、最高裁が、再審以外の通常事件において、高裁の有罪判決を破棄する例がほとんどなくなってきていると言うことである。八海事件や松川事件では最高裁によるえん罪の救済が図られ、「まだ、最高裁がある」が、被告人と救援者の合い言葉だった時代があった。
最近の実情はどうであろうか。過去3年分(平成28,29,30年度版)の犯罪白書をみてみる。
平成27年に言い渡された控訴審判決に対する上告率(控訴棄却の決定,控訴の取下げ,公訴棄却の決定及び移送等による終局を除く終局処理人員に対する上告人員の比率)は,37.5%であった。同年における最高裁判所の上告事件の終局処理人員は,1,891人(第一審が高等裁判所であるものを含む。)であり,その内訳は,上告棄却1,565人(82.8%),上告取下げ317人(16.8%),公訴棄却決定9人であった(司法統計年報による。)。
平成28年に言い渡された控訴審判決に対する上告率(控訴棄却の決定,控訴の取下げ,公訴棄却の決定及び移送等による終局を除く終局処理人員に対する上告人員の比率)は,40.2%であった。同年における最高裁判所の上告事件の終局処理人員は,1,957人(第一審が高等裁判所であるものを含む。)であり,その内訳は,上告棄却1,597人(81.6%),上告取下げ351人(17.9%),公訴棄却決定6人(0.3%)であった(司法統計年報による。)。
平成29年に言い渡された控訴審判決に対する上告率(控訴棄却の決定,控訴の取下げ,公訴棄却の決定及び移送等による終局を除く終局処理人員に対する上告人員の比率)は,40.9%であった。同年における最高裁判所の上告事件の終局処理人員は,2,106人(第一審が高等裁判所であるものを含む。)であり,その内訳は,上告棄却1,776人(84.3%),上告取下げ327人(15.5%),公訴棄却決定2人,破棄自判1人(自判内容は無罪)であった(司法統計年報による。)。
つまり、上告を容れて、無罪方向で原判決を破棄した事件は過去3年間でわずか一件だけであると言うことである。そのような最高裁が、再審開始を棄却する方向で、検察官の特別抗告を容れたのであるから、最高裁の目線がどちらを向いているか、明らかではないか。このような判断は、下級審裁判官に対して、「再審開始」などという判断は控えよという強力なメッセージとなっただろう。
えん罪は国家権力の行使によって生ずる様々な人権侵害の中で、最も悲惨なものである。 であるからこそ、えん罪を生み出さないための刑事裁判制度が構想され、自白獲得のための拷問を禁止し、「疑わしきは被告人の利益に」という証拠法則の徹底が図られてきた。従来、えん罪の克服はヨーロッパにおける刑事裁判制度の発展に沿って理解され、日本の刑事裁判制度はこれを追う必要があると説かれてきた。もちろん、このような立論は間違っていない。
しかし、この大崎事件の最高裁決定は、我が国の最高裁が、えん罪の救済ではなく、再審開始を徹底して妨害し、多少のえん罪犠牲者を生み出しても、犯罪者の必罰を図るという意思をあきらかにしたように、私には見える。司法はえん罪の救済という任務を放棄したのだろうか。これは、司法を仕事の場とする私たち弁護士に対してはもちろんのこと、市民社会全体に対する衝撃的なメッセージである。
イギリスの刑事再審委員会制度は機能しているか?
本年の3月イギリス・レディング大学で教鞭を執られていた佐藤舞氏が、ホイル教授と共著でオックスフォード大学出版会から「Reasons to
doubt疑う理由 誤った判決とイギリス刑事再審委員会」を出版された(Oxford University Press、2019)。これは、イギリス(スコットランドを除く)刑事事件再審査委員会(Criminal Cases Review Commission) の活動に関する研究である。
刑が確定した刑事事件のうち、どのような事件に関して同委員会が、「えん罪である可能性が高い (real possibility test) 」という判断を下しているのかを分析したものである。佐藤氏らは、3年間をかけ事件ファイルの内容分析および調査員へのインタビューを行い、社会学的観点から委員会の活動を実証的に明らかにした。
1991年「バーミンガム6人事件」について、控訴院が有罪判決を破棄した。この衝撃的なえん罪について「刑事司法に関する王立委員会」が設立された。1993年には王立委員会報告書提言No. 331が公表された。1995年刑事上訴法が制定され、1997年には、刑事事件再審委員会が設立された。
この委員会は、えん罪の救済目的のために特化された国家機関である。そして、同法の17条によって、外部機関から文書を入手する権限が与えられ、申し立てられた事件の59%のケースで、この権限が適用されている(2011-2013)。平均1ケースにつきう4.9回適用され、裁判所、警察、検察、社会福祉、医者、学校等から情報が集められる。日本では再審請求弁護人がやるような仕事を委員会が証拠収集の権限を持ってやってくれるのである。
委員会では、本人が簡単に読み、書き込むことのできる申し立てフォームを作成している。このような努力によって、委員会では、1997年から2019年1月までに24,658の請求を受け、658 件を控訴院に付託し、そのうち437件で控訴院が有罪判決を破棄している。毎年平均すれば約20件程度の再審無罪判決が出されていることになる。年間の請求数は1,000-1,400件程度で推移し、付託率は0.8から3%で推移している。
決して高率ではない。しかし、日本における再審事件の救済率に比べれば、比較にならないほど高い。日本の刑事訴訟制度がイギリスのそれに比べて格段に優れているのでなければ、イギリスで毎年20件の再審無罪判決があるのに、日本では本当に数えるほどしか再審が開始されない実情は、日本の司法制度がえん罪救済のために機能していないと言うことを示しているといわなければならないだろう。
台湾における再審のための証拠開示制度
今年の3月2日に結成された冤罪犠牲者の会で記念講演を行った李怡修氏(一橋大学)は、次のように報告している。
李氏は台湾イノセンス・プロジェクト(TIP)での活動経験をもつ。台湾では、事件が確定すると、捜査段階から公判段階、確定判決までに収集されたすべての証拠が「一件記録」として保管される。再審を申し立てようとする弁護人は、このすべてを自由に閲覧・謄写することができる。請求人(元被告人)自身も同様に全証拠にアクセスできるよう、法改正されることが決まっている。つまり日本のように、証拠開示請求する必要性そのものが存在しないのである。
現代中国における冤罪救済の進展
中国においても、冤罪救済のための大きな流れが見られる。
「2016年12月2日、20年以上も経過した聶樹斌事件の無罪判決がようやく言い渡され、この長年にわたり冤罪が叫ばれ続けてきた事件がついに解決された。聶樹斌さんは1995年に故意の殺人と婦女強姦の罪を問われ、有罪判決の上、死刑が執行された。2014年12月12日、最高裁は山東省高級人民法院(高裁)に対し、同事件の再審査を命じた。事件の劇的な進展とその複雑性、特殊さだけでなく、その冤罪から経過した月日の長さ、事件の再審の難しさ、そして関心の高さのいずれをとっても、同事件は中国司法においてシンボルとなる事件だと言われている。
冤罪事件の再審はいずれも社会の公平さと正義について、新たな解釈となるものだ。先ごろ、最高裁は「中国法院の司法改革(2013-2016)」白書を公表した。同白書には2013年から2016年までの間に、中国の各レベルの裁判所で法に基づく無罪判決を受けた被告は3718人、そして国の賠償案件は16889件となり、その賠償金額は69905.18万元(1元は約16.6円)にのぼることを明らかにし、「2016年は全国の裁判所で過去4年間の重大冤罪事件23件、被告37人の再審を行ったほか、新たに冤罪事件11件、被告17人の再審が行われた。これは過去最高の件数となった」としている(北京週報 2017年3月13日「3年間で冤罪無罪判決3718人 中国の司法分野、人権保障へ新たな動き」)。
中国政府による少数民族や政治的反対派に対する刑事司法を適用した厳しい抑圧は、国際的に強く批判されている。このような動きも、国際社会からの批判を意識したものと見る見方もあるだろう。しかし、中国の最高裁は、冤罪の救済を最重要課題として明確に認識していることだけは確かである。そして、日本の最高裁には、この基本認識が欠けているのである。
唐の大宗は、宰相の最重要の仕事は冤滞の救済であると述べている
今の日本のえん罪救済制度の実効性は、ヨーロッパ諸国や台湾、中国における制度に比べて遅れているだけでなく、遠い古代の中国や日本の王朝時代の制度と比べても、その精神において明らかに後退しているように思われる。最高裁の裁判官諸氏に、自らのよって立つ理念を思い返していただくために、話を古代にまでさかのぼることを許されたい。
古代中国では、冤罪をなくすと言うことは、古来君主の最も大切な任務であると考えられてきた。唐の史官である呉兢が編纂したとされる聖君太宗の言行録「貞観政要」は、今も人生訓として読み継がれている名著であるが、ここにはつぎのような太宗の文言が書き留められている。
「【論択官 第4】
貞観二年、太宗、房玄齢・杜如晦に謂ひて曰く、卿は僕射たり。当に朕の憂を助け、耳目を広開し、賢哲を求訪すべし。比聞く、卿等、詞訟を聴受すること、日に数百有りと。此れ即ち符牒を読むに暇あらず、安んぞ能く朕を助けて賢を求めんや、と。因りて尚書省に勅し、細務は皆左右丞に付し、惟だ冤滞の大事の、合に聞奏すべき者のみ、僕射に関せしむ。」
僕射とは、尚書省の長官であり、簡単に言えば宰相のことである。この時代、行政権のトップが司法権も行使していた。宰相は最高裁の長官も兼ねていたといえる。そして宰相の最大の任務は、刑事裁判において冤罪に泣いている者がいないかを検討することだと太宗は述べているのである(湯浅邦宏著 呉兢原著「貞観政要」(角川ソフィア文庫 2017年)139-140頁)。
慮囚制度とは
もう少し詳しく、唐代の冤罪の救済の仕組みを検討してみたい。日本と中国の法制史の大家である瀧川政次郎博士の米寿記念論集『律令制の諸問題』に島善高氏の執筆された「唐代慮囚考」という興味深い論考が収録されている。
この論文には、慮囚制度の沿革・目的・手続き・効果が論述されている。慮囚とは本來「録囚徒」と記し、文字通りに読めば、囚人を記録するということである。前漢の時代にすでにみられ、後漢には制度化されていた。それは、京兆尹や刺史等の地方長官が管内を巡行して獄囚に冤罪や滯獄で苦しむ者の有無を審理し、冤滯者があるときには正しい剣決を與え―平反という―、訴訟を速やかに決着させることであった。
皇帝の行なう臨時の「録囚徒」も後漢の頃より見られ、その際には輕犯者を赦免する場合もあった。臨時の「録囚徒」は魏晉南北朝、さらには唐代においても頻繁に行なわれ、唐代ではこれを「慮囚」とも表記したという。
島によれば、古代中国においては、様々な災害は為政者の悪政が招いたものと考えられ、その悪政の究極のものが冤罪だと考えられていたという。であるから、冤罪者を出さないことは、国家の存立に関によって深刻な自然災害が起きるという思想を迷信と呼ぶことはたやすい。しかし、この時代の為政者には、えん罪に泣く者とその家族の悲嘆の大きさを想像することができたと見ることも許されるだろう。そして、このような感覚は、一部の軍事独裁国家の司法機関を除けば、現代の世界の司法機関のトップの多くが共有している考え方であるといえるだろう。そして、我々にとっての悲劇は、現代日本の最高裁には、このような想像力すら枯渇してしまったようであるということである。
聖武天皇は、獄を訪ねえん罪に泣く者がないかを調べる詔勅を発している
日本ではどうか。日本でも、奈良時代に冤罪に泣く者がいないかを獄を訪ねて確認せよと命じた天皇がいた。奈良時代の天皇、聖武天皇である。『続日本紀』から引用する。
「神亀二年(625年)十二月二十一日
次のように詔した。死んだ者は生き返ることができない。処刑された者はもう一度息をふき返すことがない。これは古典にも重要なこととされたことである。刑の執行に恵みを垂れることがなくてよかろうか。今刑部省の奏上した在京および天下諸国の現に獄につながれている囚徒のうち、死罪の者は流罪に、流罪の者は徒罪(ずざい)に減刑せよ。徒罪以下の者については、刑部省の奏上のようにせよ。」(『聖武天皇 責めはわれ一人にあり』森本公誠(2010年 講談社)より)
聖武天皇の治世である神亀六年(629年)二月に「左道を学び、国を傾けんとした」との嫌疑を掛けられ、長屋王および吉備内親王所生の諸王が邸内で自尽させられる「長屋王の変」が起きた。長屋王は天武天皇の長男である高市皇子の子であり、母は天智天皇の皇女の御名部皇女であった。この事件は、藤原四兄弟によって皇位継承権を持つと考えられた長屋王家の抹殺が図られた事件と考えられている。聖武天皇は、長屋王の変が起きた時の天皇であり、藤原不比等の孫であり、この事件について許可を与えていたと思われる。しかし、長屋王に現実に謀反の計画があったとする証拠はなく、これは『続日本紀』にも「誣告」であったと記されている。聖武天皇の心の裡には、そそのかされたとはいえ、無実の長屋王の命を奪った後悔の念が生涯消えなかったと考えられる。
「天平三年(731年)一一月一六日
聖武天皇が平城京を巡幸中、監獄のそばを通られると、囚人たちの悲しみ、叫ぶ声が聞こえてきた。天皇はそれに憐れみの心をいだかれ、使いを遣わして、罪状の軽重を刑部省に再審査させるよう命じられた。その結果恩赦が与えられ、死罪以下すべての囚人の罪が減免されることとなった。併せて、囚人に衣服が下賜され、罪人たちが自らの過ちを悔い改めて、更生を図るようにさせられた。」(『聖武天皇 責めはわれ一人にあり』より)
なぜ、日本では300年余にわたって死刑の執行が停止されたのか
810年に薬子の変で、藤原仲成が誅された後には、死刑が言い渡されても、死罪を遠流か禁獄に減刑することが慣行化した。嵯峨天皇の時代である。これ以来日本は347年間という長期間にわたって,律令による死刑は執行されなかった。
このような死刑の執行停止状況が長く続いた理由については、殺生を戒める仏教の影響を指摘する考え方がある。えん罪による処刑とこれに起因すると信じられた「祟り」による災害を懸念したとの考えもある。
そもそも、唐代の律令に比べ、日本の大宝律令の定める刑罰と実際の執行が軽かったという指摘もある(石井良助『法制史』47頁以下)。818年には、盗犯に対する死刑が事実上廃止された(団藤重光『死刑廃止論』第5版 264頁)。
平安時代の中期まで編纂されていた国史(日本後紀、続日本後紀など)には、災害などをきっかけとして、罪を赦すとの詔勅が無数に収録されている。当時の日本は、中国の制度を手本としていたのであるから、唐代に盛んに行われていた慮囚の考え方は、奈良、平安朝の日本でも共有化されていたのではないか。
飛鳥時代、奈良時代から平安前期の時代を見ると、多くの皇族や高官が冤罪を疑われる嫌疑や陰謀の犠牲となって処刑されている。山背大兄王子、有馬皇子、大津皇子、長屋王、井上内親王、藤原薬子らがそれである。810年に薬子の変で藤原仲成が処刑されたのが、最後の処刑とされており、この事件が嵯峨天皇が死刑の執行の停止を命ずるきっかけとなったのではないだろうか。
日本の近世には死刑廃止の思想はなかったと考えられてきた。しかし、団藤重光によれば、江戸時代の陽明学の流れの中には死刑廃止と親和性を持つ考えが見られるという。徳川家光の孫で尾張藩主であった徳川宗春は、著書『温知政要』の中で、慈忍こそが中心思想であり、刑罪はたとい千万人中一人を誤って刑しても取り返しがつかず、天理に背き国持の大恥であると論じているという。そして、その10年間の治世で死刑を行わなかったという(団藤重光『死刑廃止論』第5版 272頁)。
冤罪で人を刑すれば、取り返しがつかず、その怨念が大きな災害をもたらすという考え方は世界各国にみられ、死刑の執行の停止をもたらしてきたことは疑いない。
いまこそ求められる再審に関する法制度の改革
このように、新たに冤罪を生み出さない、冤罪に泣くものを確実に救うことは、古代の中国でも、古代の日本でも均しく国政の最重要事項と考えられてきた。
最高裁による大崎事件の再審開始棄却決定という極めつきの不当決定に、メディアも心ある市民も、いま最高裁に起きている異常な事態に気づきつつある。いま、最高裁には袴田事件の特別抗告審が係属中であり、袴田巌氏の自由か死かを、最高裁は判断しなければならない。最高裁判所は、冤罪の救済こそが司法の至高の役割であるということを今一度思い出すべきである。
そして、その自覚を促すために、国会は再審に関する法制度を改革しなければならない。まず、再審開始決定に対する検察官抗告を認める制度を改めなければならない。そして、再審請求人には、当該事件について捜査機関が収集したすべての証拠の開示を求める権利を保障しなければならない。大崎事件の最高裁決定を、日本の司法を変えていく反転攻勢の糸口として闘っていかなければならない。